なぜ、私たちは「作業」を「仕事」と呼んでしまうのか?

日本社会の閉塞感を解く「概念の再定義」

· Insights,Business

前職でのこと。ある優秀な若手社員が、ふと漏らした言葉が忘れられない。

「やったことないことをやるのが仕事。やったことあることをやるのは作業。」

確かに、特に日本においては、この2者を混同することが多いように見える。感心した。

そして実はこの混同こそが、主体性の欠如を引き起こし、創造的なイノベーションの阻害要因となり、ゆくゆくはバタフライエフェクト的に我が国の国力低迷に直結しているような気さえする。

そこで今回は、仕事・労働・作業といった“似て非なる概念”について、改めて(私なりの)定義をしておこうと思う。※言葉の厳密な学術定義とは異なる、あくまで本稿における私の定義。

「仕事」「労働」「作業」

■ 仕事

仕事とは「人が社会の中で果たす役割や価値提供の総体」のこと。つまり、家事も子育てもすべては仕事。「人生の営み全体」「人生そのもの」と言い換えることもできるかもしれない。

当然、仕事は「何のためにやるのか」という目的性が非常に強く、場合によっては報酬の有無すら問わない。個人のアイデンティティと直結する概念。

■ 労働

労働は、人生の営みの総体である「仕事(≒人生)の一部」に該当する。賃金や報酬と交換される労力の部分。

つまり、労働とは単に労働力を提供することに過ぎず、必ずしもそこにやりがいは伴わない。単なる“経済活動”の一種。

■ 作業

作業は「労働」のさらに一部。データ入力やメール返信、掃除といった「個別具体的なタスク」を指す概念。目的よりも手順や効率が重視される部分であり、結果“人間でも機械でもできること”が多い。

単なる“行動の単位”のことであり、仕事とも労働とも、異なるレイヤーの話。

「AIによってなくなる“仕事”は?」という、終わらない議論

AIが急速に代替するのは、上記のうちの「作業」であることは明確だ(※)。目的性が強く、個人のアイデンティティに直結する“人生の役割”と言える「仕事」などを、AIにはどうやっても代替しようがない。

にもかかわらず、本節の見出しのような議論がいつまでも続いている。

この背景には何があるのだろうか?

※かつては創造的と思われていた「労働」すら、AIによる自動化によって「ルーチン化(=作業化)」されつつある状況になってきている。

閑話休題:言葉=概念の重要性

ところで、日本語の「物語」という単語は、英語ではしばしば Story(ストーリー) と Narrative(ナラティブ) という二つの言葉で使い分けられている。

ストーリーは、出来事の流れそのもの、事実の連なりを指し、ナラティブは、その出来事をどう意味づけるかという「解釈の枠組み」を指す。

先の見えない時代において、人は出来事そのものよりもそれをどう解釈するかによって行動を決めるため、近年ビジネスや社会科学では「ナラティブ」が非常に重視されている。ストーリーは誰が語っても同一なものだが、ナラティブは語りによって大きく意味合い・解釈が変わる。

「仕事」は労働とも作業とも違い、「人生」に近い

これに近い構造が、いわゆる「仕事」と呼ばれるものにも存在していると考えられる。日本人の多くは、「仕事=賃金を得るための活動」と誤認しているのだ。だからこそ「仕事vsプライベート」「ワークvsライフ」「仕事vs人生」といった、よくある誤解に基づいた、生産性の低い対立構造が生まれ続けてしまっている(「働き方改革」が本質的に進まないのも、これが原因だと考えている)。

しかし本来(前述した通り)、

  • 仕事(役割・価値提供≒人生)
  • 労働(賃金と交換される働き)
  • 作業(タスク)

は、それぞれまったく別の概念である。ここを明確に区別しないと、当然議論は混乱する。

海外のように、

  • 「work」は人生の営み。家事も育児も介護も該当
  • 「labor」はその一部
  • 「job」はそのまた一部

という階層構造で、私たち日本人もあらためて捉え直すべきだ。

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言葉の重みを、取り戻す

例えば、労働時間の短縮は結構だが、仕事時間の短縮は不可能だ(それは「早死に」を意味するから)。

例えば、AIに作業は代替できても、仕事を代替することも不可能だ(AIは個人が生きる目的を代わりに背負えるものではなないから)。

「仕事にやりがいがない」と感じるとき、実は作業ばかりしていることが多い。生きる目的=本来の仕事に立ち戻るべきだ。

「労働がつらい」と感じるなら、薄れている仕事=人生の意味づけにもう一度厚みを持たせなければならない。

日本社会において「仕事」が「賃金を得るための行為」に矮小化されてしまっているのは、高度経済成長期における「企業への全人格的帰属」の影響だろう。会社の中に自己を埋没させることで、個々人がナラティブを構築する必要がなかったのだ。

しかし、その「大きなナラティブ」が壊れた今、多くの人は「作業」をこなす機械のパーツになり、自らの「仕事(人生の意味)」を見失っているのではないか。

今こそ、仕事と労働と作業を明確に分けて考えなければならない。日本人がこの区別を意識することは、働き方の健全化にとっても本当に重要だ。

「物語」とは違い、日本語でも「仕事」「労働」「作業」と、それぞれに異なる言葉=概念が用意されている。ならば、私たちはその言葉の重みを、今一度取り戻すべきではないだろうか。

冒頭の若手社員にとって「やったことのないこと(仕事)」とは、単なる新しいタスクではなく、「自分が自分の人生の物語を書き換える行為」であったのだろう。改めて感心してしまう。

人間×AI共進化ストラテジスト/HRアーキテクト

藤本英樹(BBDF)