「なぜ、あの人が評価されるのか分からない」
「なぜ、この仕事の価値が伝わらないのか」
人事評価を巡る不満は、どんな組織にも存在するものだろう(参考リンク:2025年12月18日 東洋経済記事 「え、なんであの人が昇進!?」「仕事を投げて自分では何もやらないのに…」「後輩に先を越された」 "昇進人事"にモヤッとするワケ)。
この問題を、単に「制度が悪い」「上司の見る目がない」と片づけてしまうのは、本質的ではない。真の問題は、「評価とは何か」という問いそのものが、十分にこれまで考えられて来なかったことにあるのではないだろうか。
評価とは「成果を測る行為」ではない
評価はしばしば、「成果を数値化し、序列をつける行為」として理解される。しかし、これは評価の結果であって、評価そのものの本質ではない。
評価の本質とは何か?それは、他者の行為を理解しようとする行為である、ということの認識だ。この点を見失ったとき、評価は単なる管理装置になってしまう。
では「正しい評価」は、どうすれば実現できるのだろうか。考えて行きたい。
問題の核心①:評価軸が「暗黙知」のまま運用されている
多くの組織で起きている問題は、実はこれに尽きるのではないだろうか。
何をもって「良い仕事」とするのか
何をもって「貢献」とみなすのか
何をもって「マネジメントができている」と判断するのか
これらが制度上は存在しているように見えて、実際には曖昧で、言語化されていないのだ。
その結果、見栄えのいい成果や説明がうまい人、堂々と話す人、上層部に分かりやすいアウトプットといった非本質的なものが「なんとなく」高く評価される。
これらは不正でも陰謀でもない。しかし組織の弱体化につながる、深刻な問題だ。評価軸が暗黙知のまま運用されていることの必然的帰結であると言える。
問題の核心②:「作る能力」と「評価する能力」は同じである
たとえば、DIYで棚を作ることを想像してみよう。
棚を作ったことがある人は、工程の難しさも、精度が要求されるポイントも、失敗しやすい箇所も、知っている。だから、完成した棚を見れば「これはちゃんと作られている」「これは見た目は良いが強度に問題がある」と判断できる。
一方、作ったことのない人は、「見た目がそれっぽいか」や「立っているか」といった、極めて表層的な部分でしか判断できない。だから、ガタガタの棚を見て「できた!できた!」と喜んでしまうようなことも起こる。
ここから導かれる結論は明快だ。評価する能力とは、その仕事を構造的に理解している能力のことである。そして多くの場合、その理解は「自分でやったことがある」経験から生まれる。つまり、自分がやったことのない部下の仕事を評価することは、本来難しいのだ。
実名を挙げることは控えるが、とある上場企業の社長は、社内のすべての業務を自分で、少なくとも「やったことがある」としている。営業に始まり、制度設計や労務管理、経理、システム開発、そして意思決定に至るまで。このような「実経験の厚み」があることにより、彼は「その仕事の何が大変なのか」「どこで判断が分かれるのか」「表に出ない苦労はどこにあるのか」を想像できる立場にある。
これが「部下を評価することができる」上司の、ひとつの理想的な姿と言えるだろう。
「経験なき評価」を成立させるための3つの前提条件
とは言え、どれほど優秀な経営者であっても、全職種・全専門領域・全行程を「実体験」することは、現実的には難しいだろう。つまり、評価とは本質的に「不完全な行為」なのだ。
では、評価は必ず歪み、不正確になってしまうのだろうか?
そんなことはない。たとえば、選手の自主性を尊重する青学・原晋監督は「指導者は必ずしも選手より優れたプレイヤーである必要はない」という趣旨の発言をしている。経験が評価の精度を高めることに疑いの余地はないが、これは必須条件ではなく、構造を正しく理解する力があれば、評価・指導は可能なのだ。
ただし、そのためには3つの条件が必要となってくる。
① 感謝(=分かっていないことを認める姿勢)
ここで言う「感謝」とは、情緒的な道徳論ではない。「自分はその仕事を完全には分かっていない」と自覚した上で、部下の語りに耳を傾ける姿勢のことだ。
感謝のない評価者は、結果だけを求め、プロセスを切り捨て、不可視の行為を無価値化する。逆に感謝のある評価者は、このように問いかけるだろう。
「どこが一番大変だった?」(プロセスを説明させる)
「なぜ、そこが難しかった?」(困難を言語化させる)
「そこから何を学んだ?」(経験を共有させる)
評価とは、本来後者の営みである。両者の差は、制度ではなく人間観の差だ。前者(感謝のない評価者)に対して、部下は「自分でやったこともないのに評価するのか」「じゃあ、自分でやってみろ」と不満を抱きやすい。
② 正しい知識(=評価者の学習責任)
自らは経験したことのない部下の業務が存在する際は、せめて学ばなければならない。
その仕事の構造
典型的な失敗パターン
専門用語の意味
品質を左右する勘所
これらを正しく認識することが、評価者に課された最低限の職務責任である。
評価される側だけが学び、評価する側が学ぼうとしない。そのような組織では、評価は必ず形骸化する。「評価する立場に立つ」ということは、「学ぶ義務を引き受ける」ことと同一だ。そこを認識していない評価者が多すぎるのだ。
③ 暗黙知を前提にしない制度設計
そして最後が、制度の問題だ。「評価者は万能ではない」という前提に立つ制度設計が求められる。評価軸を言語化し、それを行動レベルにまで落とすことが重要だろう(参考リンク:BBDF 日本ガイシが示した“口だけ経営”脱却の唯一策)。コンピテンシーの定義(言語化)、行動指標化、ナラティブ評価の導入などだ。
たとえば「感謝」は、評価項目に落とし込むことが可能なはずだ。
・他者の貢献を明示しているか
・成果発表時に功績を独占していないか
・部下の仕事を「説明できる」か
こういったことを、行動評価として位置づけるのだ。定例会で他者の貢献を必ず言及する、レビュー時に具体的な協力者を挙げる、などの施策が考えられるだろう。
また、評価者の“教育”も重要だろう。評価者は「選ばれし人」ではなく、訓練されるべき役割なのだ。評価制度の盲点は、「評価される側」ばかりが教育され、「評価する側」が教育されないことにある。本来必要なのは、評価者向けの職務理解教育やプロセスを聴き取る訓練、判断の限界を自覚する訓練ではないだろうか。ケーススタディ、ロールプレイが必須だ。
そして何より、「経験なき評価」を前提に設計することが重要だ。評価は常に「不完全」であることを正しく認識することから始まる。不完全さを前提にすることで、評価は謙虚さを保ち、組織の信頼を維持できる。ここでは、360度評価や複数視点、行動ログ、定性情報などを組み合わせる必要があるだろう。
BANIの世界で最も危険なのは自らを万能であると勘違いするリーダーだと言われている。一人の無知を、集合知で補う(BANI+でいうところの「Interconnected」。参考リンク:BBDF VUCAではもう足りない:混沌時代の新フレーム<BANI>)。これこそが、現実的な評価制度の姿だろう。
哲学が示す「評価の限界」
制度論だけでは限界がある。哲学的視点を導入することで、評価の本質をより深く理解できる。今回の「評価の限界」問題は、哲学的に解明することも可能だ。
たとえば、フッサール(オーストリアの哲学者)的に言えば、評価不能性の正体は「生活世界(Lebenswelt)から切断された判断」である。つまり、評価とは「生活世界に根差した理解」ということになる。現場の具体的経験(原体験)から切り離された評価は、必ず空疎になってしまうのだ。
また、ユダヤ人思想家アーレント的に言うなら、仕事とは「行為(action)」であり、その多くは不可視だ。つまり評価とは「不可視の行為を想像する営み」ということになる。調整、配慮、判断、躊躇、葛藤──これらは成果物には現れない。本来不可視の行為を想像し、尊重する姿勢こそが、正しい評価に近づく鍵だ。
評価とは、人間観の表明である
評価の問題は、制度の問題・能力の問題である以前に、人間観の問題である。
どんなに精緻な制度を導入しても、評価軸を暗黙知のまま運用し、経験なき判断を自覚せず、感謝も学習も欠いたまま評価を行えば、必ず不条理が生じる。
逆に言えば、評価とは、「分かろうとする行為」である。
この哲学が共有されてはじめて、制度は“生きたもの”になるのだろう。
人間×AI共進化ストラテジスト/HRアーキテクト
藤本英樹(BBDF)

