最近、CxOの種類がますます増えている。CTO、CDO、CHRO、そしてCAIO(Chief AI Officer)。テクノロジーが高度化し、経営判断が複雑化するにつれて、「専門責任者」を置くこと自体は、極めて合理的な流れだろう。
そこで、こんな問いを立ててみた。
「哲学(Philosophy)」の責任者は、誰なのか?
高度化する判断。「前提」は誰が担保しているのか?
AI、データ、アルゴリズム……私たちは、かつてないほど精緻な判断材料を手に入れた。しかし一方で、こんな違和感も強まっている。
その判断は「できるから」で選ばれていないか
「競合がやっているから」に引きずられていないか
その決定は、人をどう扱う前提に立っているのか
技術や制度は頻繁に語られる。だが、その前提にある人間観・価値観・世界観は、ほとんど語られない。結果として、多くの企業では「評価軸が暗黙知のまま運用される」「制度はあるが、意味が共有されていない」といった事態が常態化している。
これは、経営の問題というよりも、「哲学の不在」が生んでいる構造的な問題ではないだろうか。
CPO(Chief Philosophy Officer)という発想は現実的か?
こうした問題意識から、「CPO(哲学責任者)が必要なのではないか」という発想に至った。だが、率直に言えば、そのままでは現実的とは言いがたいだろう。理由は明確だ。
・「哲学=抽象的で役に立たない」という強い誤解
・KPI化が極めて難しい
・CEOの役割と衝突しやすい
・既存のCPO(Product/Procurement)との混同
そして何より、日本企業においては「社長が思想家であること」自体が前提になっていないこと。
このような状況で「哲学責任者」を置けば、組織は簡単に割れてしまうだろう。「正しさを語る人」と「現実を回す人」のふたつに。
これは、最悪の分断だ。
それでも、哲学が「必要」だ
ただし、ここで話を終わらせるつもりはない。なぜなら、バックキャスティングで考えたとき、哲学を置かないまま進む経営のリスクが、あまりにも大きくなっているように見えるからだ。
BANI(Brittle/Anxious/Nonlinear/Incomprehensible)の時代に、もはや正解は存在しない。トレードオフから逃げることもできない。
だからこそ、経営には「何を優先し、何を犠牲にする会社なのか」を明確に語る責任が生じる。
これは、AIにも制度にも代替できるものではない。
哲学は、もう「特別な人のもの」ではない
興味深い動きがある。ミュージシャンであり、タレントであり、俳優でもあるあの(ano)氏が、『哲学なんていらない哲学』というタイトルの書籍を来週出版するという。
彼女は本書について、こう語っている。
「人生の参考書でも教科書でもない」
「誰かの人生を変えようなんて思っていない」
「当たり前のことを『当たり前じゃない』と言うために書きたい」
この言葉は、非常に示唆に富んでいる。
彼女は哲学を「人を導くための正解」や「誰かを説得するための理屈」として扱っていない。むしろ、「自分の違和感を、そのままにしないための言語化」として引き受けている。
考えてみれば、これは極めて現代的な哲学の姿だ。正解がなく、誰かが保証してくれるわけでもない世界で、それでも「考えること」から逃げない、という。
エンターテインメントの最前線を走るアイドルが、このような形で真摯に哲学と向き合っているのに……企業経営だけが、「哲学は役に立たない」「抽象的すぎる」と言って済ませてよいはずがないだろう。
哲学は、もはや大学の講義室や思想書の中だけにあるものではない。意思決定の前提を問い、当たり前を疑い、自分の選択を引き受けるための思考様式として、静かに、確実に広がっているのだ(参考リンク:BBDF AI超加速時代、「哲学」が再評価される理由)。
だからこそ、経営の中にも「哲学の居場所」が必要なのだ。そう考えることは、決して突飛な話ではない。
解は「肩書」ではなく「機能」としての“CPhO”
そこで現実解として、私の中で浮かび上がったのが、CPhO(Chief Philosophy & Purpose Officer)という発想である。
重要なのは、「哲学を語る偉い人」を置くことではない。
・判断の「前提」を言語化する
・トレードオフを直視させる
・「この会社らしさ」を問い続ける
・制度・AI・評価と哲学の整合性を点検する
こうした機能を、CEO直轄、あるいは経営中枢に組み込むことだ。個人である必要はない。CHROやCAIOと連動した「思想機能」でもいいだろう。
哲学とは、答えを出すためのものではなく、浅い決断を回避するための装置なのだから。
それでも、社長には覚悟が要る
ただし、一つだけ譲れない前提がある。それは、社長自身が「CPhO以上の思想的責任」を引き受ける覚悟を持つことだ。
哲学を外注することはできない。最終的に「引き受ける」と決めるのは、常にトップである。
正直に言えば、「日本企業では無理そうだなあ」と思う気持ちの方が強い。だが同時に、こうも思う。
それを考えること自体は、決してムダではない。
むしろ、AIが急進化する今、これを考えないまま進むことの方が、はるかに危険なのではないか。
CPhOは「未来の役割」かもしれない
CPhOは、今日すぐに普及する肩書ではないだろう。しかし、将来的に「あの時、なぜ誰も思想を担保しなかったのか」と問われる時代は、必ず来る。
そのときに備えて、経営の中に「哲学の居場所」をつくること。それは、混沌の時代における最も実務的なリスクマネジメントなのではないだろうか。
人間×AI共進化ストラテジスト/HRアーキテクト
藤本英樹(BBDF)

