コロナで開いた「差」の顕在化
2020年、新型コロナ感染症の拡大により、在宅勤務(リモートワーク)が一気に普及しました。多くのサラリーマンにとって、それは“通勤にかかっていた時間”を「自分の時間」として取り戻すきっかけとなりました。
そして今、あれから5年が経過し、その「自分の時間」を何に使ったか?による“差”が、はっきりと現れてきたように感じます。(ちなみに私は当時フル出社だったので、まったく「自分の時間」は増えませんでした…笑。もっとも、医療・介護・物流・スーパーなど、私などよりはるかに過酷な状況で“出社せざるを得なかった”方々も多くおられたことは、ここで明言しておきたいと思います。そうしたエッセンシャルワーカーの方々の存在と献身に、改めて感謝と敬意を表します。)
例えば、国内の小規模なシステムベンダーで営業をしていた後輩の一人は、通勤にかかっていた1日1時間を、すべてオンライン英会話に充てていました。その結果、数年で彼女の英語力はネイティブに近いレベルへと上達。大手IT企業への転職を果たし、現在はグローバル販売部門のシニア・マネージャーとして世界を飛び回っています。
一方で、せっかく手にした「自分の時間」を、Netflixなどのエンタメ視聴に使い続けていた別の後輩がどうなったか…ここではあえて触れません。
もちろん、「Netflixを観ること」自体が悪いわけではありません。むしろそれを通じて感性を磨いたり、知的好奇心を刺激されたりすることもあるでしょう。問題は、それが単なる“消費的な受動行動”にとどまり、自己の意味づけや創造性に繋がっていなかったとすれば、その時間は“空白”として過ぎていってしまう、という点です。
思えば、1日たったの1時間だったとしても、年間240日の勤務とすれば、それは年間240時間。8時間労働を基準にすると1か月半分の労働時間に相当します。それを学びに充て続けていたら、数年後に差がつくのは、ある意味当然とも言えるでしょう。
すでにリモートワークが主流化してから5年。出社に戻った企業もありますが、合計すれば1200時間以上もの時間が、「自由時間」として生まれていた計算になります。半年分の労働に匹敵するこの時間を、意識的に「意味のあること」に使っていたかどうかで、その後のキャリアにも人生にも、確かな差が生まれているように思います。
「学校は暇つぶし」?!
そんな折、ある方に「学校(school)の語源は“暇つぶし”だよ」と教えられ、驚いて帰宅後すぐに調べてみたところ、意外にも、それは事実でした。
英語の「school」は、古代ギリシャ語の σχολή(skholē) に由来しています。そしてこの「skholē」はもともと、「暇」や「余暇」「自由な時間」を意味する言葉だったのです。
ここでいう「暇」とは、単なる退屈な時間や気晴らしではありません。プラトンやアリストテレスといったギリシャの知識人たちは、この自由時間を「哲学的対話」や「知的活動」に充てました。やがて「skholē」は、「学びの場」や「学問そのもの」を意味するようになり、ラテン語の「schola」を経て、現代の「school」へと繋がっていきます。
なぜ「暇」=「学び」だったのか?
古代ギリシャにおいて、肉体労働は奴隷の担うものとされていました。そして、自由な市民(特に裕福な男性)に許されたのが、「何かに追われることなく、思索や対話に没頭する時間」だったのです。
つまり、“強制されない時間”こそが、人間が自由になるための前提であり、自らの知性や精神を育てるための、最も貴重な時間とされていたわけです。
したがって、「school=暇つぶし」と訳してしまうと、どうしても軽く聞こえてしまいます。むしろ、「知的余暇」や「精神の自由を育む時間」と捉えた方が、より本質に近いかもしれません。
AIによって「暇」が再び訪れる
いま私たちは、AIの急速な発展によって、これまで人間が担っていた多くの仕事が、次々と代替されていく時代にいます。検索、資料作成、要約、翻訳、データ処理…一見、思考のように見える仕事も、その多くが実は「処理」であり、AIに任せられることが明らかになりつつあります。
こうした流れの先にあるのは、人間の時間の再配分です。かつて「コロナ禍」が私たちに時間をもたらしたように、これからはAIが私たちに“暇”をもたらすのです。
問題は、それをどう使うかです。
学びと遊びの再定義
AIによって仕事が効率化され、「空いた時間」が生まれたとき、私たちはそれをどう使うべきなのか?
一つの答えは、人間にしかできない「学び」にあります。AIがいくら知識を教えてくれても、“意味を考える”ことや、“自分の人生と結びつけて咀嚼する”ことはできません。
- 原体験に根ざした、身体性のある学び
- 人間関係や社会との関わりから生まれる共感的な学び
- 哲学やアート、歴史を通じた“意味の問い直し”としての学び
もう一つの鍵は、「遊び」の再定義です。ここで言う「遊び」とは、単なる“気晴らし”や“暇つぶし”ではありません。目的や成果から自由になった状態で、好奇心や創造性を発揮できる時間のことです。
- 「無駄」と見なされがちな即興的な創作
- 役に立つかどうかを気にせず楽しむ対話や芸術
- 道草を食うような遠回り
たしかに、Netflixを観ることも「遊び」の一部にはなり得ます。しかしそれが、「ただ流されて消費するだけの行為」だったのか、それとも「何かを感じ、考え、対話や創作につながる行為」だったのか。そこに決定的な違いがあります。
“時間の使い方”ではなく、“時間との向き合い方”こそが、本質なのです。
「時間を持った人間」が試される時代
AIによって仕事が軽くなり、強制されることが減り、自由な時間が増えていく。まさにそれは、古代ギリシャの「skholē」が現代に再来するような状況です。でもそのとき、私たちは問われることになります。
「その暇を、何に使うのか?」
AIによって労働が代替されていく時代、人間は『skholē』=“自由な時間”をどう使うべきか?学ぶのか、遊ぶのか、それとも漫然と消費するのか。
「自分の時間」が空いたときこそ、その人の“哲学”が現れるのかもしれません。
BBDF 藤本