なぜこんなにも不満が渦巻くのか?
SNSでも日常の会話でも、政治家や官僚に対する怒り、不満、諦めが充満しています。例えば政治家の発言や失言が炎上するのは日常茶飯事で、「政治家はバカばっか」「税金ドロボウ」などという言葉さえ飛び交います。そして、こんな言葉を口にしたりします。
「どの政党が政権を取っても結局同じだよ」
それは一種の諦めであり、同時に怒りの裏返しです。しかし、私がこれまで実際に出会ってきた政治家や霞が関の官僚たちは、昼夜を問わず働き、誰よりも国の未来を案じていました。彼らは決して無能でも、怠慢でもありません。
にもかかわらず、なぜここまで憎まれ、疑われ、蔑まれなければならないのでしょうか。そこには「個人の性格」ではなく、「構造として嫌われやすくなる理由」があることが解りました。国会議員秘書経験や、民間として中央省庁と仕事をした個人的経験を踏まえ、記しておこうと思います(来る参院選とは全く無関係です。念のため)。
「政治家・官僚は嫌われるようにできている」構造的な宿命
まず、そこには宿命的とも言える下記3つの構造があります。
1. 扱うイシューが多すぎる/国民の関心は一部だけ
政府は、外交・防衛・財政・教育・医療・年金など膨大な課題を同時に扱っています。内閣府のホームページでは政府の政策分野を以下のように分類しています。(参照リンク:内閣府)
- 経済・財政
- 科学技術・イノベーション
- 教育・子ども・子育て
- 男女共同参画・少子化対策
- 健康・医療
- 食・農林水産業
- 防災・国土強靱化
- 地方創生・地域活性化
- 環境・エネルギー
- 行政改革・規制改革
- 安全保障・外交・防衛
- 社会保障・年金・福祉
- 雇用・労働政策
- 文化・スポーツ
ここから派生する無数の現場課題や制度設計が「イシュー」となっており、その数は文字通り「膨大」です。
一方で国民一人ひとりが強く関心を持つテーマは、ごく一部(せいぜい2〜3個)に過ぎません。その関心事が“自分の望む形”で進まなければ、「政治はダメだ」と感じてしまいます。全体の評価ではなく、“自分にとって”の評価になりやすいのです。
2. 意見が割れるイシューでは「必ず」不満が出る
憲法改正、原発、子育て支援、増税、夫婦別姓など、国を分断するようなテーマでは、多数決でどちらかに決めるしかありません。それが民主主義です。つまり、どちらに転んでも“納得できない側”が必ず生まれることになります。そして、その怒りは「聞いてくれなかった」「民意が無視された」という言葉に変わっていきます。
3. 政治は「見えない成功」「目立つ失敗」
防災・国防・外交・法整備など、「何も起こらなかった」という結果が最大の成果となる仕事が多くあります。そして、その裏には関係者の長年に渡る多大な努力が存在しています。しかし、それらの仕事は「当たり前」とされ、決して目立つことはありません。
一方で失言、不祥事、制度の不具合はすぐに報じられ、拡散されます。結果として、可視化されるのは「失敗」ばかりになります。人々の印象は自然とネガティブに偏ることになります。
「叩きたくなる」感情の裏にあるメカニズム
次に、政治家や官僚を叩きたくなる、その感情の裏側にある“心理構造”を見ていきます。
1. 高い地位・安定への象徴的な嫉視
官僚は高学歴で高収入、政治家は権力と発信力を持っています。多くの国民にとってそれは「恵まれた階層」に見えます。努力よりも“特権”の側面ばかりが印象に残り、感情的な妬みが生まれやすいと言えます。
2. 努力が見えず、「楽してる」と誤解される構造
官僚は連日深夜まで働き、政治家は地元・政党・省庁・国会・各種委員会等、休む暇などありません。しかしその苦労はほとんど可視化されることがないため、「税金で贅沢してる」「少しは仕事しろ」といった誤解が生まれます。
3. 安全な「感情のはけ口」としての政治家・官僚
妬みや怒りを家庭や職場で発散してしまうと人間関係に支障が出ますが、政治家や官僚はある意味“遠い存在”であり、匿名で批判しやすい側面があります。特にSNS時代において彼らは「安心して攻撃できる対象」として機能していると言えます。
構造を理解すれば、怒りの“質”が変わる
民主主義とは、“全員が満足する制度”では決してありません。“皆が我慢できる範囲で妥協する制度”という表現の方が正しいでしょう。その構造を理解することなく、「自分の声が届かない」という怒りだけが膨らむと、誤解が不信を生み、不信が制度そのものを傷つけることになります。
感情的に「ふざけるな!」と叫ぶ前に、「なぜそうなっているのか?」を一歩引いて見る視点が必要です。それこそが「情報リテラシー」や「制度リテラシー」の根幹です。
政治家や官僚は「嫌われ役」を敢えて引き受けているのです。社会の不満を引き受けるために存在する彼らの職務には、もっと尊敬が払われるべきではないでしょうか。少なくとも「誰かが不満の的にならなければ社会が機能しない」現実があることは、もっと広く認識されるべきだと考えます。
怒りのその先にある対話。「共感的リアリズム」への道
怒って良いです。批判も必要です。ただし、それが「構造を理解したうえでの怒り」であってほしいのです。
政治家や官僚を“敵”とみなすのではなく、彼らもまたジレンマと矛盾の中で苦闘する「同じ社会の構成員」として見直す視点が、今の私たちに求められているのではないでしょうか。
不信の前に、理解を。
批判の前に、構造を。
その先にこそ、本当の対話がはじまります。
BBDF 藤本