今年を代表する?2つの「バズ」
最近、ネット上でバズっている2人の人物――戸塚宏氏と佐山サトル氏。彼らの関連動画は、いずれも高いPVを獲得しています。
発達障害、LGBT、闇バイト…様々なイシューに戸塚氏が切り込む「令和ヨットスクール」チャンネルは、5万人以上のフォロワーを抱え、一部動画は10万再生規模となっています(YouTubeリンク:令和ヨットスクール)。
「舐めてんのか?」「コ○すぞ!」がモノマネ界でブームにもなった佐山道場の動画に至っては、250万回という驚異的な視聴回数を誇っています(YouTubeリンク:佐山道場)。
興味深いのは、これらにおける問題発言や暴力行為が炎上している訳ではなく、普通に“人気コンテンツ”として消費されている点です。しかも単なる「懐古」や「ネタ化」だけでは説明できないムーブメント。
ではなぜ今、これらのコンテンツが話題となっているのでしょうか?
本稿では、バズの背景、若者による支持の仮説、企業・上司の文脈を一本の線として読み解いてみたいと思います。
最近のバズ傾向が示しているもの
戸塚動画と佐山動画、ふたつの共通点は以下のようなものです。
・強い言葉
・善悪を即断
・曖昧さを排除
つまり、内容の正当性よりも、その「迷いのなさ」や「基準の明確さ」が注目されている可能性が高いように思えます。
SNS時代は「断言」が拡散されやすいと言われています。そして、コロナ禍で対面の叱責経験がさらに減り、リモートワークで評価基準が曖昧化し、「承認欲求」より「存在の確定欲求」が強まっている…そういった背景を踏まえると、バズっているのは「体罰」ではなく“明確に裁く声”の方。消費されているのは、決して「暴力」ではなく「断言」。私はそう分析しています。
仮説:支持層が若者だとしたら
「最近の若者は甘い」
「叱られ耐性がない」
こういった声が、特にビジネスの現場では頻繁に聞かれます。いわゆる「甘やかされた世代」論です。しかし私は、現実はむしろ逆ではないかと考えています。
親に怒られないまま育ち、学校でも叱られず、社会に出ると(会社では)コンプラ配慮で腫れ物扱いされる…この環境で育った若者が欠いているのは、愛情でも自由でもなく、「評価軸の明確さ」です。
「傷つけない言い方」「配慮ある指導」「正解を言わない上司」「自分で考えさせる教育」…一見、理想的ですが、これは若者にとって「上司に判断を放棄されてしまっている状態」でもあります。「何をしたらダメなのか」「どこまでなら許されるのか」「今の自分はYesなのかNoなのか」…これらが一切フィードバックされていない状況に置かれてしまっているのです。
もちろん、そのような状況を心地良いと感じる若者もいるでしょう。しかし、それによって、
・評価基準が見えない
・正解が分からない
・なのに責任は個人に帰される
という「モヤモヤ」に包まれてしまっている若者の方こそ、多く存在しているのではないでしょうか。そして、そのような若者が戸塚氏や佐山氏の動画を求めていると考えると、辻褄が合います。
現代の若者が本当に求めているもの
論点は、そのような「モヤモヤに包まれた若者」が本当に求めているのは何なのか、ということです。それは、暴力ではなく「自分の行為を明確に裁いてくれる声」ではないでしょうか。しかし現代社会では、この“健全な叱責”がほぼ消滅しています。では、そもそも叱責とは何で、暴力とは何が違うのでしょうか。ここを整理しない限り、なぜ若者が戸塚氏や佐山氏に惹かれるのかは理解できません。
怒る=個人の感情(ひとりでも成立)
叱る=関係行為(相手ありき)
この2者は似てまったく非なるものです。「怒る」の目的は単なる感情の発散ですが、「叱る」は感情を主目的とはせず、関係性の上でのみ成立するものです。教育的な場面で求められるのは、当然後者のみということになります。後者のみが相手の未来に責任を持つ行為だからです。
仮に戸塚氏や佐山氏の動画を支持しているのが若者だとすると、彼らは暴力や恫喝を求めているということでしょうか?
違います。暴力や恫喝そのもの、もしくは人格否定でも支配でもありません。彼らが求めているのは、
「お前はここにいる」と、認められること。そして
「その行為は良い/悪い」と、自らの存在と行為に“意味を与えられる”ことです。
戸塚氏も佐山氏も、善悪を迷いなく即断し、曖昧さゼロのその言葉は、とにかく強烈です。価値観が「一本通っている」点に疑問を挟む余地がない(正誤は別として)。これが、「モヤモヤに包まれた若者」が本当に求めているものであり、同時に現代の日本社会が失ってしまった要素なのでしょう。
このように、叱責は本来「相手の未来を前提にした行為」であり、暴力とはまったく異なります。しかし現代の企業では、この区別が曖昧なまま“叱責=ハラスメント”と短絡的に扱われています。その結果、上司は叱ることを避け、若者は評価軸を与えられないまま放置される。…企業側では何が起きているのでしょうか。
企業・上司の文脈で何が起きているのか
現在、多くの企業では「怒る=叱る=ハラスメント」と短絡的に結びつけることにより、実質「ラク」をしようとしているように見えます。若者を腫れ物扱いしておけば、企業や上司はそれ以上己の責任を追及する必要がなくなるのです。あまりにも短絡的で、思考停止的と言えるでしょう(企業が叱責を避けるのは、単なる怠慢だけではなく、リスクとコストの観点から“合理的な選択”であるようにも思えますが)。
そのようにして、企業・上司は、
・怒らない
・否定しない
・でも、教えない
・評価基準も語らない
を、徹底してしまっています。しかし、これは優しさなどではなく、単なる自己保身であり、関与と責任の放棄に他ならないものです。若手から見ると、このようにしか映らないでしょう。
「自分は、見られていない」
「自分は、判断されていない」
「否定されないまま、なぜか評価は下げられる」
「大人は、自分の保身しか考えていない」
「…て、なんなん?」
健全な叱責と暴力の決定的な違い
若者が求めているのは暴力ではなく“判断の明確さ”です。では、その判断を与える行為である「叱責」と、単なる「暴力」は何が違うのでしょうか。この違いを整理すると、なぜ彼らが戸塚氏や佐山氏に惹かれるのかがより明確になります。
○暴力・恫喝の特徴
まず、目的が「恐怖を与えること」です。相手の主体性を奪い、相手の未来は考慮しません。
○健全な叱責の特徴
「相手の未来」が前提にあります。判断基準を相手に渡し、行為と人格を切り分けるものです。
要するに、本質的な違いは
叱責は、選択肢を増やす
暴力は、選択肢を奪う
ということになります。
少なくとも佐山氏に関して、その動画全体を見れば、彼の行為の前提に「相手の未来」が明確に存在していることがよくわかります。彼の一見暴力に見える行為は、相手(練習生)がセルフモチベートするための手法だったのです。
※私はかつて、佐山氏の勉強会「Principle」に参加していました。そこで彼が「知行合一」を軸に、行為と判断を一致させる陽明学を重視していることを知りました。彼の叱責は単なる感情ではなく、未来の行動を変えるための“判断の訓練”なのです。
社会と企業の「空白」
健全に叱れる大人・上司が、現代では完全に消えてしまいました。その空白に一見「極端」「過激」「単純」に見えるモデルが(再び)現れ、脚光を浴びているのです。
上司や大人に判断を放棄されることによる「モヤモヤ」という不安に包まれた多くの若者が今求めているのは、
「お前は甘えている。」
「それではダメだ。No。」
と断言してくれる存在なのです(繰り返しになりますが、そうではない若者も当然存在します)。戸塚氏や佐山氏の動画を見ることで、快・不快とは別次元で、疑似的(バーチャル)な“安心”が生まれているのではないでしょうか。
叱責の不在は、単なる企業文化の問題ではなく、社会全体の“父性の喪失”とも深く関係しています。父性が制度から消え、権威が全否定され、叱責がリスクになった社会で“歪んだ父性イメージ”がゾンビ化しているのです。父性とは境界線を引く役割で、母性とは受容する役割です。現代は母性過多・父性欠如と言われています。その結果、若者は「境界線を引く存在」を外部に求めているのではないでしょうか。
言い換えると、若者が叱責動画を見る理由は「疑似的な父性の摂取」です。ホラー映画を見るのは恐怖の疑似体験、恋愛ドラマを見るのは恋愛の疑似体験であるように、父性の疑似体験として叱責動画を見ているのです。
戸塚氏や佐山氏が“答え”なのではありません。彼らが「疑似的な父性」として支持される状況こそ、社会と企業が叱責の機能を失った証拠であるという話です。
若者(もちろん、すべての若者がそうではありませんが)は、「自分の存在を、他者の言葉で確定させてほしい」と渇望しているのではないか。そんな気がしてなりません。健全な形でそれを与える大人・制度が消えた結果、最も過激で単純なモデルに吸い寄せられているのです。彼らは叱責動画を“娯楽”としてではなく、“自己定義の補助線”として消費しているのです。
若者に“本当の本当に”必要なものは?
このように現代の若者が率直に「No」を突き付けてくれる大人の存在を渇望し、戸塚氏や佐山氏にその幻影を見てしまうことは、極めて自然であり、当然と言えます。ただ、本来必要なのは、誰かに叱ってもらう社会ではなく、自分で自分を問い直せる人間を育てる社会なのではないでしょうか。
そして、そのような社会に必要なのは、体罰でも恫喝でもなく、“問いの訓練”です。現代の若者は評価軸を与えられておらず、自分で評価軸を作る訓練も受けていません。なので、そこに「モヤモヤ」が生じてしまい、強烈な「外部の断言」(戸塚氏や佐山氏)に引き寄せられているのです。つまり、本質的な問題は「叱られないこと」ではなく、「自分で自分を定義できないこと」です。
若者が求めているのは、誰かに怒鳴られることではなく、「自分の行為をどう判断すべきか」という“軸”です。本来、叱責とはその軸を外部から与える行為ですが、それを内面化できれば、他者に叱られなくても自分で自分を律することができます。そのために必要なのが、正解のない状況で「自分は何を根拠に選ぶのか」を言語化する技術――「哲学」です。「誰かに叱られなくても、自分で自分を問い直せる力」があれば、若者は誰かに確定されずとも、自分の存在を定義することが可能になります。
一方、企業・上司に必要なものは?
若者が「叱ってくれる上司」を求めていたとしても、現代の企業・上司がコンプラ違反でクビになることを恐れてしまうのは当然でしょう。
私は、ここにおける本質的な問題は「叱る」という行為が個人リスクとして切り出されてしまった制度設計にあると考えています。叱ることのハラスメントリスクも、評価の説明責任も、上司個人に追わせているような状態で、「もっと若者を叱れ」は、さすがに無責任すぎる要求となってしまうでしょう。
では、何が必要かなのでしょうか?まず、叱責を「個人の責任」にしないことです。
前述の通り「叱る=相手の未来を思う行為」ですが、これを個人の善意や勇気に依存し続けるのを終わらせなければなりません。判断基準を組織として明文化し、上司はそれを「代弁」する役割にするのです。叱責を「個人の感情」ではなく「制度の言語化」として扱うようにするのです。
現在の日本企業の多くでは、評価基準が曖昧で、期待行動は暗黙知化しています。メンバーが失敗すると、上司が「個人的に」注意する/もしくは何も言わない。トラブると「あなた(上司)の言い方に問題があった」となる。上司の感情・人格・胆力にすべてが乗っかっている形です。
「主体性を発揮しろ」「プロ意識を持て」「チームワークを大事に」といった評価基準のすべては、それっぽいだけで実は極めて曖昧なものに過ぎません。これらを“行動レベル”に言語化することが、第一ステップでしょう。
・会議では「反対意見を1つ以上出す」
・締切遅延が起きた場合は「48時間以内に原因と再発防止を共有する」
・顧客クレームは「個人で抱えず24時間以内に報告する」
といったように、「叱責される内容」を明文化するのです。学校教育の“ルーブリック評価”と同じ構造で、行動基準を明文化することで叱責を個人の感情から切り離す仕組みです。
上司に「それ、ちょっと良くないと思うんだよね」「俺の感覚では違う」「普通はさ…」などと言われても、若手の頭の中は「それって、あなたの感情ですよね?」「(あ、今日は機嫌悪いんだなw)」としかなりません。
「これは会社として決めている基準なんだけど」「今の行動は、そこから外れている」「だから“叱っている”というより、基準を確認しています」と上司が言えるようになったときはじめて、若者は「個人的に嫌われているわけではない」「次どうすればいいか分かる」状態になることができます。これにより、「叱責=感情」ではなく「叱責=代弁行為」になります。叱責の責任主体が個人から組織に移る――これが最大のポイントです。手を抜いた制度のままではいけません。
そして、哲学を「内省の技術」として組み込むことです。必ずしも若者に正解を教える必要はありません。しかし、問いの立て方は教える必要があります。具体的に言うと「何を考え、どう判断し、どう行動したか」を、逃げずに言語化させるのです。これも制度に組み込むのが良いでしょう。
基準は3層で設計すると分かりやすいです。
【レイヤー1】事実ベースの行動基準(最低限)
これは誰が見てもYes/Noが分かれる基準です。締切を守った/守らなかった、報告を24時間以内にした/しなかった、会議資料を事前共有した/しなかった、クレームを個人で抱えた/共有した、などです。感情ゼロでいいこれらは、「叱責」というより「確認」です。
【レイヤー2】判断プロセスの基準(核心)
なぜその判断をしたのか説明できるか、他の選択肢を検討したか、どの価値(顧客・品質・速度・安全など)を優先したか、判断時に何を根拠にしたか、といった、プロセスの基準を言語化します。それにより叱責の言葉は、「なんでそんなことしたんだ」から「そのとき、何を一番大事だと考えた?」に変わるはずです。ここから、哲学が入り込む余地が生まれます。
【レイヤー3】再発防止・意味づけの基準
次に同じ状況が来たらどうするか、その判断は「自分の軸」に照らしてどうか、組織として学びに変えられているか…ここではじめて、「あなたはどうありたいか」という問いが正当化されます。
これは、叱責の内面化とでも言うべきものです。他者に叱られなくても、自分で自分を叱れる状態をつくるのです。
言語化すべき基準とは、人格でも成果でもありません。問題にすべきなのは、どのように判断し、その判断をどう説明できるかです。
経営が哲学を持つこと
ここに哲学が接続されます。哲学とは、正解を教えることではなく、正解のない状況で自分は何を根拠に選ぶのかを言葉にする訓練だからです。
叱責を制度から排除するのではなく、判断の問いとして組み込むこと。それが、叱られなければ動けない人間ではなく、自らを定義できる人間を育てる唯一の道です。
若者は今、「他者の断言にすがる」か「判断放棄された不安に沈む」の二択に追い込まれてしまっています。制度化された叱責と哲学により、
組織→行動基準を提示する
上司→それを代弁する
本人→「なぜそうするのか」を考えざるを得ない
となり、ここで初めて「叱責→内省→自己定義」が回り始めます。
叱責を上司個人の感情に任せる限り、それは常にハラスメントの地雷原になってしまいます。これを恐れて何もできていないのが現状です。
上司は怒る人ではなく、組織の価値基準の代弁者でよい。そう考えています。
まずは経営が哲学を持つこと。それなしには何も進むことはないでしょう。
人間×AI共進化ストラテジスト/HRアーキテクト
藤本英樹(BBDF)

