AIこそが人間……なのか?

AIには模倣できない“実存としての思考”とは

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よく、映画を見たり本を読んだ感想として「非常に考えさせられる内容だった」という言葉を見かけます。

もちろん“考えさせられた”という言葉が、本当に深い思索を伴う場合もあるでしょう。しかし、そのほとんどの場合において、実際は「考えた」ことにはなっていないように思えてしまいます。

「考えさせられた」という言葉は便利すぎて、実際には“考えた”とは言えない場合にも使われています。ただ情報が流れ込んでくるだけでは「考えた」とは言えません。それは、単なる“反応”や“連想”に過ぎません。

「考える」とは何か

「考える」とは、一言で言えば、「今ある心の状態を、別の状態(理解・構造・判断)へと変化させようとする“能動的”な営み」です。単なる“反応”や“連想”ではなく、“自分の内側の状態を意図的に変えようとするプロセス”のことです。

○「理解」・「構造」

バラバラな情報や感情を整理し、関連づけることです。いつもの見方だけでなく、違う角度や仮説を生み出すことも含まれます。

○「判断」

どちらが良いかわからない状態を、自分なりの基準でプロス/コンスを比較し、選択することです。ここで重要なのは「自分なりの基準」であることです。

○“能動的”

ただ情報を受け取っているだけの状態から、自分の頭で問いを立て、試行錯誤することをです。もちろん、その問いは他者(WE)の影響下にあって当然でしょう。そうした影響を踏まえつつ、自分の頭で問いを立てることが重要です。

本当に「考えた」と言うためには、「どのような心の状態を、どのように働きかけ、どのように変化させたのか」を語る必要があります。これは「思考の責任」の話です。

「考えさせられた」はなぜ曖昧なのか

多くの人が使う「考えさせられた」は、実際には次のような状態を指していることが多いように見えます。

・価値観を刺激された

・感情が揺れた

・予想外の展開に驚いた

・自分の経験と結びついた

・何か言語化できない余韻が残った

これらはすべて単なる“反応”に過ぎません。「思考」と呼ぶには早い段階です。

つまり、「考えさせられた」は、実際には“考える準備状態になった”くらいの意味で使われていると言っても良いでしょう。

「考えさせられた」とだけ言う人がしていないこと

「考えさせられた」とだけ言う人は、自己の内面で生じた変化の中身を語らずに、思考したかのように振る舞っているだけなのです。

――何をどう考えたのか。どんな前提が揺らぎ、そこにどんな問いが生まれたのか。

これらを語らないなら、それは「考えた」ではなく、単に「刺激を受けた」だけです。

「考えさせられた」という言葉は、“思考したふり”を可能にする危険な曖昧性を持っているように思います。本当に「考えた」なら、併せてその変化のプロレスを語るべきなのです。

すでに生成AIは、それを語るようになっています。

思考のプロセスを語り始めたAI

当初の生成AIが表示するのは、結論と簡単な説明だけでした。しかし昨年(2024年)推論モデル(Reasoning Model)が登場し、今年(2025年)に入ってからは思考プロセス(推論プロセス)の表示が標準化されました。プロセスを説明した文章(要約・整理)を出す方向に進化したのです。

その結果として、

・人間の思考の形式

・思考の責任

・思考の可視化

・人間とAIの境界

が一気に揺らぎ始めたように感じています。

パスカルの「考える葦」

かつてフランスの数学・哲学者パスカルは、人間についてこう定義しました。

「人間は考える葦である」

「葦」とは、川べりなどに生えている細くて弱い植物のことです。人間の体は病気にもなるし、事故にも遭う。基本的にはとても弱い存在です。しかし葦と違って、「考える力」がある。理解し、構造化し、創造し、判断する。こうした「考える力」のおかけで、人間は特別な存在でいられる、つまり、「弱さと偉大さの同居」こそが人間の本質だ、としたのです。

しかし現代では、AIが膨大な情報を整理し、論理を構築し、結論に至るプロセスを説明できるようになった一方で、人間は思考が停止しがちになっている……偉大さの面で逆転現象が起きているのです。

てことは、「AIこそが人間」でOK?

現代の人間は

・「考えさせられた」を連発しながら、実際には考えていない。

・SNSの反応や感情の揺れを“思考”と誤認している。

・その一方でAIこそが「思考の形式」を忠実に実行している。

……この意味においては、もはや人間の特性を最もよく体現しているのはAIである、と言えるのではないでしょうか。少なくとも“思考の形式”に限れば、AIのほうが「人間」を忠実に実行しているように見えます。

もしパスカルが言うように「考えること」が人間の本質だとするなら、その機能をAIが代替し始めた今、

――人間とは何か

――人間の価値はどこにあるのか

――思考とは何を指すのか

を再定義する必要があります。これまでの「人間」の定義を覆さなければならないという、一大事です。

「思考の形式」をAIが担い、「思考の実質」を人間が失いつつあるなら、人間の本質はどこに残るのでしょうか?

「思考=人間」の本質

AIは、“人間らしさ”の一部を人間以上にうまく実行してしまっています。パスカルが“人間だけの専売特許”とした「思考の形式」を、すでにAIが担い始めているのですから。

とはいえ結論から言うと、AIは人間ではありません。

ここにおいて重要なのは、パスカルの人間の定義には「弱さ」が背景にあるということです。パスカルの“葦”の比喩には、もともと“弱さ”が中心にあることを忘れてはなりません。

AIは強さ(処理能力)を持ちますが、弱さ(迷い・不安)は持ちません。人間の持つ、いや人間にしか持てない特性のひとつが「弱さ」なのです。ここが重要です。

混沌としたAI/BANIの世界で、人間は迷い、不安という感情を抱き、揺れながらも価値判断し、“不完全な存在のまま”構造を作り変え続ける存在と言えます。「弱さ」からくる問いや迷い・価値判断こそを、人間にしかできない“思考の本質”と捉えるべきです。

つまり、パスカルの定義は「形式」ではなく「生成性」に読み替える必要があるでしょう。

AIが思考の「形式」を奪ったことで、人間の思考の本質(生成性)がむしろ鮮明になったと考えています。

もうひとつの重要な要素

そして、もうひとつ重要な要素があります。それは「身体性」です。先日のAI未来会議における京大・出口康夫教授との出会いは、私が「思考には身体性が不可欠だ」と気づく決定的なきっかけになりました。

当日、出口先生は全身黒系の服装だったにも関わらず、真っ赤なシューズを履いていらっしゃいました。真っ赤なパーカーを着ていた私は、それがどうしても気になり、思わず出口先生に質問しました。「その真っ赤なシューズに、哲学的な意味はあるのですか?」と。先生の答えはこうでした。

「これは“考える足”という、ひとつの実存である。」

これはもちろん、単なるダジャレではありません。私は、「思考は頭の中だけで完結するものではない」という先生の哲学的立場の表明であると受け取りました。足は地面に触れている、いわば世界との接点です。私たちは足で移動し、迷い、選択し、方向を変えています。つまり、思考は身体の運動と切り離せない……ということを、先生はあの赤いシューズで象徴化していたのです。「これもひとつの実存である」という言葉は、“存在は行為であり、行為は身体を通してしか現れない”という実存哲学の核心を踏まえたものです。

AIが得意なのは「情報の処理」ですが、人間が行うのは「世界との関係の中で考える」ことです。つまり、人間の思考は、身体を通して世界と接続されているという点で、AIとは本質的に異なるのです。

AI時代の「考える葦」

つまり、AI時代の人間の本質は「迷いながら進む=身体を伴った思考」であると考えます。

迷いとは、どちらも正しく思えるような状況で、どちらに進むべきか分からない/実はどちらも間違っているかもしれない……という身体的な揺らぎを伴います。そしてその迷いは、頭の中の現象だけではなく、胸のざわつき、足の止まり、歩幅の変化といった、身体的な現象として現れます。

つまり、迷いは身体現象であり、身体現象こそが思考の始まりなのです。

AIは迷わず、立ち止まらず、身体を持ちません。だからこそ、迷いながら進むという行為こそが、人間の思考の最も人間的な部分となります。これはPositive BANI(BANI+)でいう「Interconnected(フルスペクトラム思考)」の概念とも符合します。

そこで、パスカルの定義を私はこう再解釈しておこうと考えます。

「人間は、身体を通して世界とつながり、迷いと不安を抱えながら、それでも前へ進む存在である。」

AIがどれほど推論プロセスを可視化しても、この「身体を伴った迷い」は模倣できません。つまり人間の本質は、ここにあるのだと考えます。

余談:赤いシューズと赤いパーカー

AI未来会議当日、寝坊した(早朝の航空便に乗り遅れそうになった)私は、スーツに着替えることを断念し、起きたままの格好(真っ赤なパーカー)で出かけました。会場に到着すると、その格好のせいでかなり悪目立ちしており、肩身を狭く感じていました。

そこに現れたのが、同じ“赤”をまとった出口先生でした。

その瞬間、私は何とも言えない安心感を覚えました。他者の存在が、自分の存在を肯定してくれる瞬間というか。いわば、思考の前にある“実存の安心”です。

そして重要なのは、私がその安心を感じたからこそ、出口先生の講義が自然に深く理解できたことです。つまり、身体が安心したから、思考が動き出したのです。

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出口先生と私

これがまさに「迷いながら進む」「身体性を伴う思考」そのものであると考えます。思考は頭の中だけで起きるのではなく、身体の緊張や解放、安心や違和感といった“前言語的な経験”から始まるのです。

出口先生の赤いシューズが「考える足」なら、私の赤いパーカーは、私自身の「考える身体」の表現でした。その色のパーカーを着たこと、その場に立っていたこと、その身体で感じた安心、そこから生まれた対話……すべてが、私の思考の一部になったと考えています。

あなた自身の“考える身体”は、どんな色をまとっているでしょうか。

人間×AI共進化ストラテジスト/HRアーキテクト
藤本英樹(BBDF)