違和感から始まる哲学:あのちゃんの言葉を読み解く

なぜ人は哲学を「わからない」と言うのか

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遂に発売となったあのちゃん(敢えてちゃん付けとさせていただきます)の著書『哲学なんていらない哲学』がまだ家に届かず、シビレを切らしています。イライラしても仕方ないので、文章でも書いて気持ちを落ち着かせることにします。

まず、本書に関し、あのちゃんはこのように述べています。

・「人生の参考書でも教科書でもない」
・「誰かの人生を変えようなんて思っていない」
・「当たり前のことを『当たり前じゃない』と言うために書きたい」

そして、「哲学」そのものに関する彼女の考えは以下の通りです。

「僕自身、哲学なんていらないんじゃないかと思って生きてきた。ただそうやって、哲学を否定することこそ哲学的なことが生まれていく入り口になる。どんだけ哲学や物事を否定しようとも、僕たちは哲学のもとに生きているんだ」

ソクラテスと同じ「出発点」

まず、「哲学なんていらない」という言葉自体が、哲学そのものであり、「その否定こそが哲学の入り口になる」……これはもう、ソクラテス以降ずっと続いてきた、哲学の原型と言えるものです。「哲学を否定する」という行為は、「そもそも哲学とは何か?」という問いを生みます。この“問いの発生”こそが哲学の始まりであり、ソクラテスの「無知の知」と同じ構造を持つのです。

ソクラテスは「無知の知」から始め、ニーチェは既存の価値を疑い、ウィトゲンシュタインは「言語の限界」を問い直した……あのちゃんはそれらと同じ出発点に、学問的な装飾一切なしに、自分の感覚で、自然に立っているのです。

そもそも哲学とは「哲学をやるぞ」と思った瞬間に始まるものではなく、「なんかおかしくない?」という引っかかりから、自然発生的に始まってしまうもののはずです。彼女にはその原初的姿勢というか、衝動性のようなものが強く感じられます。

あのちゃんが実践する「哲学の本質」

「当たり前のことを『当たり前じゃない』と言うために書きたい」……これこそがまさに、哲学の本質です。「前提を疑う」という態度そのもの。“世界を一度バラして、見慣れたものを見慣れないものとして見る”姿勢です。

そして「哲学を否定することこそ哲学の入り口になる」という彼女の言葉には、“哲学の外側に出ようとしても、結局その行為自体が哲学的である”というパラドックスを直感的に掴んでいる、恐るべき彼女の感性の鋭さが見て取れます。

既存の哲学に対する批判的とも言える姿勢

「人生の参考書でも教科書でもない」……この言葉は、非常に強く響きます。入門書として流通している“哲学書”の多くは読者に何かを教えようとしますが、あのちゃんは「教えない」ことを宣言しているのです。この距離感こそが、逆に読者の思考を自由にするはずです。

誰かに教わった理屈ではなく、自分の身体感覚から溢れた「何かおかしいぞ?」という違和感に形を与える作業こそが、彼女にとっての哲学なのでしょう。

重要なのは、「教科書ではない」「人生を変えようと思わない」と言い切りながらも、彼女がこの「彼女の哲学」を、書籍と言う形で世に問うているという事実です。彼女は読者自身の「違和感」そのものに火をつけようとしているのかもしれません。個々人の「当たり前」が静かに揺さぶられていくなら、それは結果として社会の前提そのものを変えます。そういう意味では、これは一種の“社会革命”と言っても良いのかもしれません。

なぜ人は「哲学はよくわからない」と言うのか?

多くの現代人には、哲学に対する拒否反応が見られます。その構造的な理由の中でも特に大きいのが、教育の問題だと考えています。

本来の哲学は「これ、当たり前だと思ってたけど本当にそうなん?」という、日常の引っかかりから始まるものです。あのちゃんが言うように「わからない」と言った瞬間、もう哲学してしまっている……そういった類のものなのです。「哲学はよくわからない」という言葉にはすでに、「わかるとは何か」「わかる必要はあるのか」「わからないことはダメなことなのか」といった問いの種が全部入ってしまっているのです。

あのちゃんの自然発生的な哲学姿勢とは対照的に、日本の教育では、いきなり哲学史(年号・名前・主張)を詰め込まされ、これが「哲学」だと教えられます。哲学は違和感や問いや困惑そのものを指しますが、哲学史は、それらに対して過去の人がどう悩んだかの「記録」に過ぎません。最初にこれを教えられてしまうと、こうなって当然でしょう:

「自分が何も感じていないのに、他人の悩みだけを何百年分も暗記させられる……」

これ、拷問以外の何物でもないはずです。

哲学史を先にやると「プラトンはイデア」「デカルトは我思う」「カントは純粋理性」みたいな、結論だけが並んでしまいます。「何に困っていたのか」「なぜそれが切実だったのか」「どんな違和感を持っていたのか」といった、大事な前提が抜け落ちてしまいがちです。答えだけ配られて問題文がないような状態。

昔日本史で「いい国作ろう鎌倉幕府(1192年)」と覚えさせられましたが、そういう「ガワ」だけを丸暗記していく教育になど、AI時代には何の意味もありません(しかも、今は1185年説が有力視されてるんでしょう?笑)。

そもそも、「何百年も遡るのか……」という心理的障壁が、限りなく高いものとなります。こっちは今の仕事や不安、生きづらさに向き合いたいと思っているのに、「まず古代ギリシャからでーす」とか言われる……。「いや、今の俺の話してくれよ!」となるはずです、普通は。

しかも哲学史の丸暗記は「この問いは、すでに誰かが考え終えました」と伝えるものです。すると学ぶ側は、「自分で考える必要なくね?」「既に“正解”があるんじゃん!」と感じることになります。これは、致命的です。

つまり、いま起きているのは、「哲学が難しい」ではなく「哲学に辿り着く前に疲れ果てる」という現象なのです。

あのちゃんの本の素晴らしさ

まだ届かないので、中身に関しては改めて書くことにしますが、あのちゃんは、歴史を教えず、体系を示さず、正解を配らないスタンスで執筆しています。でも、違和感だけは誤魔化さず、当たり前を疑い、言葉になる前の感覚を出す。

これは、哲学史以前の哲学というべきものであり、だからこそ「哲学嫌い」の人にほど刺さるものとなるはずです。

哲学史の丸暗記が拒否反応を生むのは、「自分の問いを持つ前に、他人の問いの“墓場”に放り込まれるような感覚になる」からです。逆に言うと、

・いま感じている違和感
・モヤっとした怒り
・言葉にならないズレ

…これらから始めれば、哲学史は敵じゃなく味方になるはずです。

ちょっとまた、ポストを見て来ます!

人間×AI共進化ストラテジスト/HRアーキテクト
藤本英樹(BBDF)