『スマッシング・マシーン』を観て感じた違和感
映画『スマッシング・マシーン』を観て、あることを強く考えさせられました。それは、「今こそ、“心技体”に回帰すべきではないか?」ということです。
私はこれまで、プロフェッショナリズムの文脈で語られてきた「体技心」という考え方に、一定の合理性を感じていました。
まず身体を鍛え、その身体を使って技術を磨く。
そして、その結果として心が安定していく。
――これは、元中日ドラゴンズ監督の落合博満氏などが提唱してきた、単なる根性論とは一線を画す「超合理主義的」なアプローチであり、その後ビジネス界でも転用されています。
「技」が「心」を支えられた時代
なぜなら当時は、「努力」と「結果」が比較的線形(リニア)につながっていたからです。
実際、この考え方は、昭和から平成にかけてのスポーツ社会、あるいはビジネス社会においては非常に有効なものでした。
身体を鍛え、練習を積み重ね、技術を磨けば、それがそのまま揺るぎない自信になった。高い技術を持つ者は、自分の武器や引き出しが多いからこそ、簡単には心を病まない。つまり、「技」が「心」を支えることができた時代だったのです。
高度成長期から平成にかけての日本社会は、ある意味で“Linear(線形)”を象徴する社会でした。
努力を積み上げれば成果につながる――
身に着けた技術は長く通用する――
専門性は裏切らない――
だからこそ、確実な「体」と「技」を先行して固めるという順番が、極めて現実的なセルフケアのロジックとして機能していました。
しかし、マーク・ケアーは壊れた
ところが、『スマッシング・マシーン』を観ていると、その順番が根本から揺らぎ始めます。
主人公であるマーク・ケアーは、「霊長類ヒト科最強」とまで呼ばれた、人類最高峰レベルの肉体を誇った男です。世界最高レベルの身体能力(体)とレスリング・スキル(技)を持ってしても、押し寄せるプレッシャーと孤独の前で、その心はあまりにも脆く、呆気なく崩壊していきました。
そして恐ろしいのは、心が壊れた結果、彼は痛みを麻痺させるための薬物(鎮痛剤)に依存せざるを得なくなり、本来のブレーキを失った肉体までもが、内側からボロボロに崩壊していったことです。これは「心が壊れれば、どんなに最強の肉体も維持できない」という何よりの証明でした。
この映画を観ながら、私は何度も思いました。
「あれ……“体技心”って、本当に正しい順番なのだろうか?」と。
本来、日本は「心技体」だった
そもそも日本武道の世界では、「心技体」が基本でした。剣道、柔道、空手など、日本武道の多くは、単なる戦闘技術ではなく、「人間形成」を目的としていたからです。
そこでは、「どう勝つか」だけではなく、「どう在るか」こそが重視されていました。だからこそ、最初に来るのはいつも「心」だったのです。
しかし近代スポーツ化・競技化が進む中で、より合理的・実践的な競技論として、「体技心」という考え方が強くなっていきました。「体技心」は決して間違った思想ではありません。ただ、その合理性を成立させていた「時代の前提」が、今まさに崩れ始めているのです。
BANI時代、「心」が最初に壊れる
AI、SNS、情報過多、比較地獄、不安、分断――。私たちは今、「BANI」と呼ばれる時代へ突入しています。BANIとは、
- Brittle(脆く壊れやすい)
- Anxious(不安)
- Nonlinear(非線形)
- Incomprehensible(理解不能)
という、現代社会の特徴を表した概念です。そして、この時代に起きている最も大きな変化は、「心が最初に壊れる」ということです。
かつては、技術を磨くことで安心でき、努力を積み上げれば報われる、という感覚がありました。しかしAI時代において、過去に積み上げたスキルや専門性は、驚くほど簡単に陳腐化しています。
昨日までの“強み”が、翌日には意味を失うという「Nonlinear(非線形)」な恐怖。過去の成功法則がまったく通用しない「Incomprehensible(理解不能)」な環境。これらが常に頭を殴り続ける現代において、人間の心は常に「Anxious(不安)」に晒され、結果として最も「Brittle(脆い)」な部分、つまり最初に壊れる場所に変わってしまったのです。今はもう、「技」が「心」を支え切れなくなっています。
実は「体技心」も、“心”を前提としていた
そして重要なのは、落合氏らの「体技心」という思想も、実は「心が壊れる手前の、健康な精神状態」を無意識の前提としていた、という点です。彼らが活躍した安定した時代には、心がそこまで削られるリスクが低かったからこそ、その前提の上に「まず体だ」と言い切ることができました。
しかし、そもそも心が完全に壊れてしまえば、身体を鍛えることすら、ベッドから起き上がることすらできなくなります。
本当は、誰もがわかっているはずです。「心」という司令塔こそが、すべての前提条件であることを。そう考えると、「体技心」という思想すら、実は“心”の存在を前提に成立していた(つまり、本質的には心が先だった)ことになります。
なぜ今、「心技体への回帰」なのか
だから私は今、「心技体」へ回帰すべきだと感じています。それは、昭和以前の精神論へ戻ろう、という話ではありません。「気合いで乗り切れ」という話でもなければ、「根性が足りない」という話でもありません。
そうではなく、「人間の心が最初に限界を迎える時代」において、再び“心”を最優先のインフラとして中心に置かなければならない、ということです。
そして私は、現代における「心技体への回帰」とは、BANI社会に対抗する概念である「Positive BANI」を身にまとうことではないかと思っています。これを現代版の「心・技・体」にマッピングするなら、次のようになります。
現代の【心】: 不安を受け入れ、孤立せず他者とつながる力(Attentive / Interconnected)
現代の【技】: 過去のスキルに固執せず、変化へ適応し学びほぐす柔軟性(Neuroflexible)
現代の【体】: 変化の波に耐え、しなやかに立ち直るレジリエンス(Bendable)
これらは、かつての「絶対に折れない刀」のような強さではありません。「折れ、傷つきながらも、しなやかに再生していく力」です。
「最強」を再定義する時代
マーク・ケアーの悲劇は、心を置き去りにした「最強」がいかに脆いかを教えてくれました。
そしてそれは、スポーツの世界だけでなく、ビジネスも、組織も、この予測不能なAI時代を生きる私たち自身に、共通して突きつけられている課題です。
心を最優先にケアし、お互いの脆さを認め合う。今私たちは、「最強」という言葉そのものを、再定義しなければならない時代に来ているのです。
人間×AI共進化ストラテジスト/HRアーキテクト
藤本英樹(BBDF)

