1週間ほど前(2025年10月23日)に、こちらの論考をアップしたばかりなのだが、
(リンク:『働かない改革から、働きたい改革へ。』)
本日(10月30日)、経団連が2026年春闘に向けて掲げていた「働きたい改革」の看板を撤回したというニュースが報じられた。
(リンク:経団連、「働きたい改革」を撤回 来春闘、首相発言への批判に配慮)
一見これは、穏当な修正にも見える。だが私は、この動きを“社会の空気”として捉えた場合、非常に危険なものを感じる。なぜなら、これは単なる文言の変更ではなく、「働くことそのものへの信頼」が再びぐらつき始めている兆候だからだ。
経団連の撤回:「働きたい改革」はそんなに悪いことか?
経団連は当初、「社員の強い勤労意欲に応える」ことを目的に、“働きたい人が働ける環境を整える”という趣旨の方針を打ち出していた。しかし、(当然ながら)「長時間労働を助長するのではないか」との批判が一部から起こり、そこに高市首相の“馬車馬発言”への反発も重なって、その看板を下ろすことになったようだ。
代わりに提示されたのは「働き方改革の再構築」という、無難で中庸な表現だった。
確かに、過労死や健康被害を生んだ「働かせすぎの時代」に戻ってはいけない。だが同時に、「働くことの喜び」までもが悪のように扱われる風潮には、別の危うさがあることを認識すべきだ。今、日本では「いかに働かないか」「いかに休むか」「いかに制度を利用するか」にばかり焦点が当てられ、“いかに価値を生み出すか”という本来の軸がどこかに置き去りにされている。
これでは、個人の誇りにも、国家の競争力にも、萎縮していく未来しかない。由々しき事態と言える。
「働き方改革」は“目的”ではなく“手段”
そもそも「働き方改革」とは、人が生き生きと働くための手段だったはずだ。残業削減やテレワーク導入などは、その目的を実現するための道具であり、決してゴールではない。
ところが、現実には「残業ゼロ」「週休3日」「定時退社」が目的化してしまい、働く意欲を持つ人までが、その“空気”に萎縮している。
「働きたい改革」は、本来そこに一石を投じる試みだったはずだ。確かに言葉の設計は上手くなかったかもしれない。“長く働きたい人”という表現が、“働かせたい企業”という誤読を招いたからだ。本来なら、「働く意欲を肯定する社会をもう一度つくろう」という理念で語るべきだった。
社会に必要なのは「働かない改革」ではなく「働きがい改革」
“働かない改革”は、短期的には耳障りが良い。だが、長期的には確実に社会を蝕むものだ。なぜなら、「頑張る人が損をする構造」を助長するからだ。
努力せずとも同じ報酬を得られるなら、人は挑戦をやめる。そして挑戦が減れば、組織も国も、未来への駆動力を失ってしまう。
だからこそ今、“働きがい改革”が必要なのだ(“働きたい改革”という言葉が否定されたので、こう呼ばせていただく)。これは「働く自由」「働く誇り」「働く意味」を再び中心に置く改革である。以下に、その骨格を提示したい。
「働きがい改革」の三層構造プラン

【第一層】価値観の再定義:“働く=創造”というナラティブの構築
- 働く量に着目するのではなく、意味と目的を中心に据えることで、「働き方改革」から「働きがい改革」へと意識の変化を起こす。
- 政府・経団連・教育現場・メディアが連携し、「働くことは人間の創造行為である」という新しい倫理観を社会に根づかせる。“働く=搾取”ではなく、“働く=世界を築く行為”という視点の構築。
- 「意味を持って働く(Work with Meaning)」という新しい国民スローガンを掲げる。
【第二層】制度・報酬の再設計:努力が報われる経済システムへ
- 「時間」ではなく「付加価値・創造性・挑戦度」で報酬を決める評価体系を構築。“働かない人が得をする社会”“努力しない者が報われる構造”を是正する。
- 時間外労働の上限は堅持しつつ、自発的に働きたい人がもっと働ける“選択制”を導入する。
- 例えば、成果・挑戦・学びを人的資本開示の指標に組み込むことで、「挑む社員」「努力する企業」が正当に評価される仕組みを構築する。
【第三層】文化・コミュニティの再構築:“働くことの誇り”を社会の中心に
- 職人・教師・介護職・研究者など、真摯に働く人々を主役とするメディア企画を増やし、働くことを“カッコいい”と感じられる文化を再構築する。
- SNS上でも「#働く歓び」「#挑戦する大人」など、ポジティブな労働(“就労”ではなく)ムーブメントを作る。
- “休む”ではなく、“意味をもって動く”人々を称える新たな社会的美徳を確立する。
「自由」と「勤労」の再統合へ
日本社会は、かつて「勤勉」を誇りとしていた。しかしそれは、戦後の高度経済成長を支えた“集団的勤勉”のことであり、今の時代にそのまま持ち込むことは不可能だ。
今、求められているのは“個の勤勉”、即ち、自分で意味を選び、自分の手で未来を創る勤勉さだろう。
AIが労働を代替する時代だからこそ、「人間が働くことの意味」をもう一度、哲学的に問い直す必要に我々は迫られているのだ。それは、「働くとは、存在を証明する行為である」という原点への回帰でもある。
「いきいきと働く人」が称えられる社会。働くことを通じて世界に関与することが、何よりも人間らしい営みだと信じられる社会。
そこにこそ、日本の再生の芽がある。
結語:経団連への提言
経団連には、日本経済の屋台骨を担う存在として、もう一度、「働くことの価値」を国全体で再構築する旗を掲げていただきたい。
“働きたい改革”という言葉は、誤解を恐れず言えば、悪くなかった。問題はその文脈の設計と、理念の発信にあったと言える。
今こそ、「働かせたい改革」でも「働かない改革」でもない、「働きがい改革」を提唱してほしい。
それが、AI時代・人口減少時代を日本人が生き抜く唯一の再生の道であることを、薄々は皆、気づいているはずだ。働くことは、罰ではなく、希望だ。そして、それは社会を動かす最大の創造行為だ。
働くことを恐れてはいけない。真に恐れるべきは、「意味のない仕事」と、「働かない者が得をする社会」だ。
人間×AI共進化ストラテジスト/HRアーキテクト
BBDF 藤本英樹

