本日、2025年6月8日付の日本経済新聞朝刊に、非常に示唆的な記事が掲載されました。(参照リンク:日本経済新聞)
「米小売り大手ウォルマートは、毎年30万人の従業員にリスキリングの機会を与える方針を打ち出した。…自動化装置の保守、空調や冷蔵の電気機器の管理など、資格が必要な技能職への転換を促す。」
この発表は、単なる研修プログラムの話ではありません。ウォルマートという、従業員数が200万人を超える“リアル世界”の巨艦が、AIとロボティクスによって「単純労働の終焉」が現実のものになったことを前提に、人材の再設計に本格的に踏み込んだ、「宣言」です。
単純作業は、AIとロボティクスによって「ゆっくりと」ではなく、「一気に」なくなっていきます。米国最大の雇用主・ウォルマートが、年間30万人のリスキリングという大胆な戦略を打ち出した今、それはもはやフィクションではないのです。
「人を減らす」か、「人に投資する」か
倉庫のピッキング、レジ対応、荷出し業務。これまで「非正規」「単純労働」と呼ばれていた領域は、今やAIとロボットが真っ先に代替を始めています。実際、ウォルマートは販売現場にAIツールを導入し、仕入れ・物流業務もデータ主導で効率化を進めています。
では、こうした変化にどう対応するべきでしょうか。
ひとつの道は、「人を削る」ことでしょう。テクノロジーの進化に応じて人件費を削減し、効率化と利益率を高めていくアプローチです。これは、短期的には合理的かもしれませんが、結果的に“労働者の切り捨て”を意味することになります。
ウォルマートが選んだのはもうひとつの道、「人に投資する」という選択肢でした。
現場出身CEOが育んだ、現場起点の人的資本戦略
ウォルマートには「現場出身のCEOが続く」という文化があります。パートタイマーから正社員、そして店長や本社幹部へと昇進できる制度が整備され、研修や教育機会も長年にわたる手厚いものがあります。この「社内登用の文化」が、今回のリスキリング施策のベースにあると考えられます。
単純作業から技能職へ。VRを用いた訓練、資格支援、世界200拠点の研修センター。こうした仕組みを用いて、年間30万人を「機械では代替できない仕事」へと送り出す。
それは、表向きは教育政策のように見えますが、実質的には人的資本経営(Human Capital Management)の実践に他なりません。
高度技術職へのリスキリング:困難性とその背景
記事でも言及されているように、すべての従業員がリスキリングを成功させられるわけではありません。電気・冷蔵設備の保守といった仕事には、資格や安全知識が不可欠です。VR訓練や講習を経ても、即戦力になるには一定の時間と適性が必要でしょう。
加えて、学習能力や基礎学力に個人差がある場合、短期間でのキャッチアップは極めて困難です。英語や数学、マニュアル読解といった基礎スキルに差がある場合、キャッチアップに大きな個人差が出てくることが想定され、これがそのまま「適応できる層」と「適応できない層」の分断につながる懸念もあるでしょう。
この解決が今後のテーマとなってくるのではないでしょうか。つまり、「AI時代において“教育されてこなかった層”をどこまで引き上げられるか?」というテーマです。これは、企業の人材戦略であると同時に、社会的包摂の問題とも言えます。
しかし、状況を傍観し続けていても、決して物事は動きません。そして、やがてはすべてが手遅れになってしまいます。今はまず、大きな一歩を踏み出したウォルマートの勇気を称えたいと思います。
ウォルマートは「人的資本経営」を意識しているのか?
では、ウォルマートはこの戦略を「人的資本経営」という文脈で語っているのでしょうか?結論から言えば、明示的には語っていません。しかし、その実態は極めて人的資本経営的です。これは、「非管理職・現場スタッフ中心のピラミッド構造」という性質上、ウォルマートが人材戦略=経営戦略にならざるを得ないからだと考えます。
人的資本経営とは、「人をコストではなく資産と見なし、長期的視点で育て、活かし、企業価値の源泉とする」という考え方です。
ISO 30414や経産省が進める人的資本開示のフレームワークでは、以下のような要素が重視されます。
- 教育・訓練投資
- キャリア開発の可視化
- エンゲージメント・働きがい
- 外部委託から内製化への移行
- 人的資本KPIの開示
ウォルマートの戦略は、こうした指標にもほぼ合致しています。とりわけ注目すべきは、「冷蔵・空調設備の保守」など、これまで外注していた専門業務を内製化=社内人材化しようとしている点です。これは、人材の“資本化”とも言える、構造的転換です。
「人的資本経営」が“日本企業の弱点”になる時代
こうした動きを見て、我々は問われています。
「日本企業は、同じような変化に対し、どれだけ“人に投資する覚悟”があるだろうか?」
残念ながら、多くの日本企業では「リスキリング」や「人的資本経営」が流行語的に扱われており(もしくは扱われてすらおらず)、現場では「研修=新人教育」「キャリア形成=自己責任」の旧来モデルが根強く残っています。つまり、再教育の制度設計や文化が未成熟なのです。経営陣が本気でリスキリングを“未来投資”と認識しなければ、現場任せ・自己啓発頼りで終わってしまいます。
リスキリングを本気で実行するには、制度設計と予算配分、そして何より経営哲学が求められます。それは単なる研修ではなく、「企業文化の再構築」に近いと言えるでしょう。この「企業文化」を作れるかどうかこそが、「人に投資する企業」と「人を削る企業」を分けるのです。
ウォルマートは「今ある仕事を維持する」のではなく、「10年後の仕事に、先に人を送る」発想をしています。対して、変化を恐れ、現状維持にしがみつく企業は、AI・ロボティクスの波に飲み込まれていくだけでしょう。
人材への“哲学”が企業格差を生む
AIの進化は、もはや避けられません。頭脳労働も、肉体労働も、定型的なものから順に、急速に、機械に置き換えられていきます。ウォルマートのような超巨大企業がリスキリングを「コスト」と見なさず、「未来への投資」として動き始めたことは、まさにAI時代の人材戦略の分水嶺になる可能性があります。これは単なる社内教育ではなく、企業の存続戦略そのものです。
10年後の“人間にしかできない仕事”とは何なのか?
それを探し、そこに向けて人を育てることができるかどうか。ウォルマートのリスキリング戦略は、単なる企業の取り組みにとどまらず、これからのAI時代における「人材哲学の実験場」として、多くの示唆を与えてくれるはずです。
「AIに奪われる仕事は何か?」ではなく、「人間にしかできない価値を、どう育てるか?」
これを考え、施策に落とし込める企業だけが、創造的なAI時代の勝者になれるのです。
BBDF 藤本