■ とにかく読み辛かった「昔の本」
レヴィ=ストロースに『悲しき熱帯』という著書がある。構造主義人類学の古典だ。「西洋近代こそが至高である」というバイアスを根底から打ち砕き、「未開」とされる人々の思考がいかに高度で緻密かを提示する内容で、私たちの「世界観の枠組み」を力技で広げてくれるような、素晴らしい本である。
ただ、とにかく難解だ。ブラジルの少数民族を訪ねる旅の記録かと思いきや急に緻密な親族体系の論理分析に入ったり、深い哲学的思索へ飛躍したりする。
マルティン・ハイデガーの『存在と時間』も、私にとっては難解な本の代表だ。「現存在」「手前存在」「世界内存在」といった造語の嵐。昔の日本語訳なんて、見たこともない漢字の熟語がぎっしりと詰まっていて、1ページ進むのに30分かかるような代物だった。
しかしこれも「私たちはなぜ生きているのか」「時間とは何か」といった問いを突き詰める上では必読の書だ。「分からなさ」と格闘しながら読むこと自体が、自分の「生きている実感」を問い直す哲学的体験そのものとなる。「20世紀哲学の金字塔」と呼ばれる理由も、まさにそこにあるのではないだろうか。
思えば、特に昭和に出た旧訳本のほとんどに「ゴツゴツした硬質な難解さ」があった。これは、訳者が「この新しい概念をどう日本語に定着させるか」と苦吟した結果であり、それにより原著の放つ強烈な熱量がそのまま残っていたとも考えられる。また、「これくらいは自力で噛み砕いて読め」という、著者・訳者から読者への無言の信頼(あるいは突き放し)があったようにも思う。そしてそれが、読破した時の達成感や高揚感につながっていた側面は否定できない。
■ Amazonの書籍レビューに見る変化
最近、訳あって様々な書籍のレビューをAmazonで見る機会があったのだが、そこでひとつの大きな違和感を私は抱いた。
「読みやすい」「わかりやすい」という評価が、最上級の褒め言葉(★5つの決め手)として多用されているのだ。
これは、現代の読書文化や情報消費の構造変化を端的に表しているような気がする。社会全体で「読書に対する期待値」が変化しているためだ。
現代における「分かりやすさ」の至上命題化は、タイパ(タイムパフォーマンス)主義と密接に結びつく。本が「思考を深める体験」から「情報を効率よく摂取するツール」へとシフトしているのだ。
このような状況下で、人は認知にかかるコストを回避する。そして、短時間で「分かった気になれる」コンテンツを選好する。読解に骨が折れる本は、内容の価値に関わらず「時間がムダになった」「著者の説明が下手」としてストレス(+低評価)の対象になってしまいかねない。
また、現代人の「読解力」低下という側面も無視できない。PISA等の学習到達度調査や教育関連の論考でも指摘されている通り、文章の複雑な文脈から意図を読み取ったり、論理の飛躍を自分で補いながら批判的に読む「高次の読解力」が全体的に衰退している傾向が見られる。
■ 例えば、アメリカではどうか?
これは日本特有の現象ではなく、例えばアメリカでも同様、あるいは日本以上に極端な形で「読みやすさ(Accessibility)」重視の傾向が進んでいる。
Amazon.comやGoodreadsなど英語圏の読書コミュニティを見ると、高評価の理由として「Easy to read / Accessible(読みやすい、親しみやすい)」、「Page-turner / Unputdownable(ページをめくる手が止まらない、途中で置けない)」、「Bite-sized(一口サイズ、小分けで読みやすい)」といったフレーズが頻繁に使われている。専門書やビジネス書でも「専門用語(Jargon)がなくて読みやすい!」が最高の褒め言葉になり、「引っかかりなく一気に読めること」が最上のエンタメ体験とされ、1章が短く、スキマ時間でサクサク読める構成が高評価に直結しているのだ。
そして、日本の読者が難解な本に対し「自分の頭が足りなくて理解できなかった(★3)」と自責に寄るケースが一定数残っているのに対し、アメリカの読者は「著者が分かりやすく書く努力を怠っている(★1)」「読者の時間を無駄にしている(★1)」と他責(著者の伝達能力不足)としてハッキリ怒る傾向が強い。
これは、近年の欧米出版業界で最も強力な販促メディアとなっているTikTokの読書系コミュニティ「BookTok」の影響も大きいと考えられる。TikTokでは「この本を読んでボロボロ泣いた」「3時間で一気読みした」といった即効性のある感情体験が拡散され、結果として、複雑な文脈や行間を味わう作品よりも、展開が速く、平易な文章で、読者の感情をストレートに揺さぶる本が爆発的に売れ、Amazonで何万件もの「★5(読みやすくて最高!)」を獲得するサイクルができている。
こうしたタイパ重視と認知コスト削減の流れは、日本だけでなくグローバルなデジタル情報社会共通の現象のようだ。世界中で「スルスル読めて、すぐに効果や感動が得られるファーストフードのような本」が評価の中心になる一方、古典や難解な名著は「一部の嗜好家が好むマニアックなコンテンツ」として、より隔離されていく二極化が進んでいるように見える。
■ 「難解さ」の中にしか存在しない価値
歴史に残る名著や哲学書、優れた文学が往々にして「読みづらい」のには、明確な理由がある。
最大の理由は、作品自体が「新たな概念や視点」を生み出している点だ。前述のハイデガー『存在と時間』などは、著者がこれまで世の中に存在しなかった概念を言葉として生み出し、訳者がそれを苦心して翻訳したものだ。既存の言葉の延長線上だけで理解することは不可能で、読者の頭の中が「?」で飽和するところが思考の起点となる。読破すること自体が、読者自身による新たな概念の習得行為であり、そのような本が「読みやすい」はずがない。ただ、そこにこそ本質の価値がある。
また、主人公が「城」に行こうとするものの、官僚機構の不条理な手続きや無意味な会話に延々と阻まれ続けるフランツ・カフカの『城』もそうだ。この読みづらさこそが、「ゴールに辿り着けない焦燥感」という現代人が抱える実存的な苦悩を、これ以上ない精度で体験させてくれる。「分かりやすいストーリー展開」を期待すると苦行に過ぎないが、この噛み合わない対話のグルーヴ感にハマると唯一無二の傑作になる。
マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』にいたっては、長大さもさることながら、とにかく一文が長い。紅茶に浸したマドレーヌの味から過去の記憶が溢れ出し、数ページにわたって意識の描写が脱線し続ける……。だがそれゆえに、「人間の記憶や時間の感覚」が極限まで高解像度で描写される。さらにレヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』が突きつけるように、異文化の複雑な思考体系と対峙する体験もまた、生易しい読書では得られない。
これらの作品が噛み砕かれた容易な言葉のみで書かれていたらと想像してみよう。それにより削ぎ落とされてしまうであろう複雑な概念や感情は莫大な量になる。一見回り道に見える描写や難解なレトリックこそが、筆者の試行錯誤の軌跡であり、読者に深い「引っかかり」を残す。この「引っかかり」を単なる「読みづらさ(=低評価の対象)」として処理してしまうと、読者の思考力や語るべきナラティブがそれ以上育つことはない。なぜなら行間を埋め、悩みながらページを繰るプロセス自体がそれらを育てるものだからだ。
■ 「出版業界の低迷」本当の理由
出版業界はこの傾向をどう捉えているのだろうか?結論から言えば、完全にこの流れに「寄せ」にいっている。以前、某大手出版社にプレゼンに行った際にそれを痛感した。
私が持参したのは、ある造語(新しい言葉)をタイトルに据えた新著のアイデアだった。まだ世の中に存在しない概念であるため、私はそれに新しい言葉を充てて名づけ、タイトルに据えたのだ。
しかし、出版社はその時点でこのプレゼンを完全否定した。曰く「書店で読者は購入可否を0.5秒で判断するのに、意味不明な造語をタイトルに据えるのは最初から負けだ」。
なるほど、その指摘は、現代のマーケティングデータとしては一理あるのだろう。実際、近年のビジネス書や新書では、『〜のマーケティング』『〜の思考法』といった直感的に中身が想像できるタイトルや、極端に長い文章型のタイトルばかりが並んでいる。
ただ、私のように、自分の知らない言葉だからこそ「ん、これは何だ?」と興味を惹かれる人間も一定数は存在するはずだ。そうした知性の欲求(フック)を切り捨て、「知っている言葉の延長線上にある安心感」しか提示しなくなっていることに、自ら違和感を持つことはないのだろうか?「売るためのロジック」を「作るべきコンテンツの基準」にまで侵食させてしまったことに対し、問題意識はないのだろうか?
出版社が「分かりやすさ」に寄せるのは、一種の生存戦略であろうことは理解できるが、その戦略こそが「長期的には自滅的」なのだ。つまり、短期合理性と長期合理性が完全に対立している。
歴史を振り返れば、出版文化の最大の功績は「新しい概念(言葉)を世に打ち出し、人々の認知の枠組みをアップデートすること」だったはずだ。たとえば「パラサイト・シングル」「手帳一元化」「リフレクション」といった言葉も、最初は誰かが提唱した抽象的な「造語」や「新しい定義」だった。にもかかわらず、「世の中にまだない言葉だから売れない」と門前払いするのは、「まだ存在しない市場を言葉によって自ら作り出す」という出版社最大の醍醐味と責任を放棄しているに等しいと言えるのではないだろうか。
デジタル化(SNSや動画)の波に対抗するために「分かりやすさ」に寄せた結果、逆に出版社は自らの首を絞める悪循環に陥っている。「分かりやすくて即効性のある情報」であれば、無料のYouTube、Web記事、生成AIで十分事足りる。本という有料メディアでそれをやっても、デジタルコンテンツのスピード感には勝てない。そして、難解さや新しい概念との格闘を求めていた「熱量のある読者」ほど、似たり寄ったりの「分かりやすい本」ばかりが並ぶ書店から足が遠のいていく。
「0.5秒で判断させる」安全策ばかりを全員が取った結果、金太郎飴のような本ばかりが溢れ、結果として本全体の魅力を乏しくしている……この「最適化の罠」こそが、出版不況の真の構造的内部要因と言える。市場の過半数が「分かりやすさ」を求めているのは事実だとしても、新しい概念を提示し、それに共鳴する一定数の熱狂的な読者とともに「新しい文化」を創り出していく気概が失われた業界からは、もはや新しい波が生まれることはないだろう。
■ 「解像度の低い世界」に抗うための読書
分かりやすい本で得られる体験が快感や安心感(既存の枠組みの再確認)であるならば、難解だが素晴らしい本で得られるのは混乱であり、負荷であり、発見、つまりは認知を揺さぶられる体験だ。前者においては消化が早い分記憶からの抜けも早く、後者は腹落ちするまでに時間はかかるが血肉になる。
勿論、「分かりやすい」こと自体が悪いわけではない。入門書や実務書において、可読性の高さは立派な技術であり価値である。しかし、「分かりやすさ」しか評価軸がない世界は非常に危ういと言えないだろうか。それは、解像度をあえて落とした「画素数の低い世界」だけで満足することと同義だ。
「分かりやすさ」は世界の複雑性を削る行為であり、「難解さ」は複雑性をそのまま受け止める行為である。現代社会は複雑性を嫌っているようだが、複雑性こそが世界の本質だ。
そんな世界を生き抜くための思考力は、「読みづらく、引っかかりのある本」との対話の中でこそ磨かれるものではないだろうか。
藤本英樹(BBDF)
