AI時代、「体験格差」は「問いの格差」になる

ガウディVRから考えたこと

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「ガウディの弟子になる」20分間

新宿で行われているイベント、「ガウディ没後100年記念 永遠なるガウディ〜VRで辿る、サグラダ・ファミリアの奇跡〜」に行ってみた。

ガウディに弟子入りし、彼のアトリエを訪れるところから始まり、サグラダ・ファミリア聖堂を内部から見上げる圧巻のラストまで、約20分間の驚異的なVR体験。サグラダ・ファミリア財団公認のコンテンツである。

実は、VRをここまで本格的に体験したのは今回が初めてだったりするのだが、その精度は想像を遥かに超えていた。アトリエにある模型にいくら近づいても、まったくぼやけることなく細部まで確認できる。机の上に置かれた設計図などを思わず手に取ろうとしてしまい、「あ、これはバーチャルだった」と思い出す——。そのくらいの没入感だった。

病床のガウディの言葉に導かれながら、「弟子」として彼の思想と建築を追体験していく旅。その中で、最も印象に残った言葉がある。

「世の中に新しい創造などない。あるのはただ発見である。」

ガウディにとって、自然は「一冊の書物」だった

ガウディは、自然界に「直線」がほとんど存在しないことを重視していた。自然の造形は、曲線、螺旋、分岐、反り、たわみなど、力学的な必然性によって形づくられている。そして彼は、自然を「一冊の書物」のようなものとして捉え、建築家とはそれを読む者だと考えた。

ここでいう「読む」とは、単純に自然の形を模倣することではない。なぜ、その形になっているのか。そこにどのような力が働いているのか。どのような構造原理が隠されているのか。それを理解し、別の文脈へ再構成する。

つまりガウディにとって「創造」とは、何もないところから何かを生み出す、いわゆる「ゼロイチ」ではなく、すでに世界に存在している原理を発見し、新しい形で組み合わせることだった。これは、シュンペーターがイノベーションを「既存の要素の新結合」と捉えたことと、本質的にかなり近いように思う。

そして今回、まさにそれを「身体で理解する」瞬間があった。ガウディが構造を検討する際に用いたことで知られる「逆さ吊り模型」である。

天井から無数の紐が垂れ下がり、それぞれに重りが付けられている。一見すると、複雑に絡み合った紐の集合体にしか見えない。ところが、VR空間の床面に大きな鏡が出現し、その吊り下げ模型が映り込んだ瞬間、思わず息を呑んだ。

そこに、サグラダ・ファミリアが出現したのである。

重力に従って自然に描かれた曲線を上下反転すると、アーチや柱からなる建築構造が現れる——。つまりガウディは、頭の中だけで奇抜な形を「創造」していたわけではなく、重力という自然法則に形をつくらせ、そこにすでに存在していた構造を「発見」していた。

先ほど聞いた「世の中に新しい創造などない。あるのはただ発見である」という言葉が、この瞬間、一気に実感を伴って腑に落ちた。

「知っている」と「体験した」の大きな違い

もちろん、こうしたガウディの思想は、本を読むことでも知ることはできる。サグラダ・ファミリアの柱が樹木を思わせる構造になっていることも、自然界の幾何学を建築に取り込んでいることも、文章や写真を見れば「知識」として理解することはできるだろう。

しかし今回、VR空間の中でその構造を見上げ、ガウディの言葉を聞き、弟子として彼のアトリエを歩いてみると、同じ情報がまったく違うものとして身体に入ってきた。

「知っている」と「体験した」は、同じではない。

当たり前のことだが、その違いを改めて強烈に感じた。そして、この感覚には覚えがあった。わずか2か月前にも、似たような衝撃を味わっていたからである。

2か月前、私は「ゴッホの世界」に入った

6月にTOKYO DREAM PARKの「RÊVE DES LUMIÈRES」を体験した。

巨大な空間全体に映像が投影され、音楽と光に包まれながらゴッホの作品世界へ入り込んでいく。そこで感じたのは、「作品を見る」という従来の美術鑑賞とはまったく違う感覚だった。

6月には、「ゴッホの絵を見る」のではなく、「ゴッホの世界に入った」。そして今回は、「ガウディについて学ぶ」のではなく、「ガウディの弟子になった」。わずか2か月の間にこの二つを体験したことで、これは単に「最近のデジタル技術はすごい」という話ではないのではないか、と思い始めた。

私たちは今、「鑑賞する」「読む」「教わる」という従来の知識獲得の方法から、「その世界の内部に入る」という新しい学び方へ踏み出しつつあるのではないか——

AI時代、希少になるのは「知識」から「原体験」へ

ここから教育の話である。

私は以前から、AI時代の教育の主軸は「知識の詰め込み」から「身体性を伴う原体験」へ移行すべきだと考え続けている。拙著『プロレス思考』で展開した「初等教育にプロレスを」という、いささか極端な提案も、その延長線上にある。なぜなら、AIによって知識へのアクセスコストは限りなくゼロに近づいているからだ。

「ガウディとは誰か」
「サグラダ・ファミリアはなぜあの形なのか」
「シュンペーターの新結合とは何か」

こうした問いには、AIが瞬時に、しかも相当な精度で答えてくれる。だからこそ逆説的に、これから希少性を増していくものがある。

自分の身体を通して世界に触れた経験である。

AIは、サグラダ・ファミリアについて何万字でも説明してくれるだろう。しかし、巨大な柱を自分の身体で見上げたときの感覚までは代替できない。そして、もっと重要なのは、その体験からこそ、

「なぜ、こんな形なのだろう?」
「なぜ自然には直線が少ないのだろう?」
「そもそも創造とは何なのだろう?」

という、その人固有の「問い」が生まれることである。だとすれば、教育の順番そのものを反転させてもいいのかもしれない。

知識 → 理解 → 体験ではなく、体験 → 驚き → 問い → 知識へ。

今回の逆さ吊り模型の体験は、まさにその順番そのものだった。最初に見たのは、意味のよく分からない無数の紐である。そこに鏡が現れ、建築が立ち上がる。驚く。「なぜ?」と思う。そして、その背後にある重力と構造の原理を理解する——

AI時代に人間が学ぶということは、むしろこちらの方が自然なのではないだろうか。

「体験格差」が「問いが生まれる機会」の格差となる

ところが、ここには大きな問題がある。

「体験格差」である。

住んでいる地域や家庭の所得などによって、子どもが旅行、美術館、スポーツ、自然体験、文化体験などにアクセスできる機会には大きな差が生じる。チャンス・フォー・チルドレンが全国の小学生の保護者を対象に行った調査によると、世帯年収300万円未満の家庭では、約3人に1人の子どもが、直近1年間に学校外の体験活動を何もしていない。

しかも、その理由は経済的事情だけではない。親に時間的余裕がないこと。送り迎えができないこと。近くに体験できる場所がないこと——。つまりこれは、所得格差だけではなく、時間格差であり、地域格差でもあるわけだ。

そして私は、「体験格差」を単に「楽しい思い出の数の格差」と捉えるべきではないと思っている。

体験とは、世界に驚く機会である。「なんだこれは?!」と思う機会だ。そこから、「なぜ?」が生まれる機会になる。それは、自分が何に心を動かされる人間なのかを発見する機会でもある。

だとすれば体験格差とは、「問いが生まれる機会」の格差でもあるのではないだろうか。

それは長い目で見れば、創造性の格差や、自分自身の可能性を発見する機会の格差にまでつながりかねない。

VRは「本物の代替」ではない

ここで、VRや没入型テクノロジーの出番である。

もちろん、VRでサグラダ・ファミリアを見ることと、実際にバルセロナへ行くことは同じではない。ゴッホの作品をデジタル空間で浴びることと、本物の絵画を目の前にすることも違う。自然体験もスポーツも、すべてVRに置き換えればいいなどと言うつもりもない。

重要なのは、「本物か偽物か」という二択ではないということだ。

バルセロナに行ける家庭の子どもだけが、サグラダ・ファミリアを身体的に体験できる世界。それとも、日本中の子どもが学校でまずその世界への入口に立ち、「なんだこれは?」と驚くことのできる世界。

どちらが教育として豊かだろうか。

VRを「本物の体験の代替装置」ではなく、「体験への入口を民主化する装置」として考えれば、その意味はまったく変わってくるはずだ。

タブレットを配って終わり、ではなく

日本でもGIGAスクール構想によって、一人一台端末の環境が急速に整備された。これはもちろん重要なことだ。しかし、教育DXの目的が「一人一台タブレットを配りました」で終わってしまっては、あまりにももったいない。

本来問うべきなのは、

「そのテクノロジーによって、子どもの世界がどれだけ広がったのか」

ではないだろうか。

古代ローマの街を歩く。
深海に潜る。
宇宙空間から地球を見る。
人体の内部に入る。
ゴッホの世界を歩く。
ガウディの弟子になる。

家庭環境や居住地域に関係なく、こうした「世界への入口」を学校が提供する。

一人一台の端末を配ることが教育DXのゴールではない。これまで一部の子どもにしか届かなかった「体験」へのアクセスを、テクノロジーによって広げていく。知識へのアクセスの次に、体験へのアクセスを保障する。

そこまで行って初めて、「教育DX」と呼べるのではないだろうか。

次に民主化すべき「体験」

ガウディは、人間が「創造」していると思っている形も、自然がすでに採用している構造原理を発見し、再構成しているにすぎないと考えた。その思想には、人間の創造性に対するある種の「謙虚さ」がある。

そして、こうした感覚こそ、文章を読んで覚えるだけではなく、今回のような体験を通じて早い段階から身体に刻み込む価値があるように思う。それは将来、真の創造性の獲得や、経路依存性からの脱却、さらにはビジネスにおけるブレークスルーにもつながっていくかもしれない。

そして考えてみれば、教育の役割も、ガウディのいう「発見」に近いのかもしれない。

子どもの中に、ひたすら何かを詰め込むことではなく、その子が世界に触れ、驚き、問い、自分が何者なのか、自分は何に心を動かされるのか、自分には何ができるのかを「発見」するための機会をつくること。

AIによって知識が誰にでも届く時代だからこそ、次に民主化すべきものは「体験」なのである。

「世の中に新しい創造などない。あるのはただ発見である。」

ガウディの言葉を思い返しながら、そんなことを考えた、お盆休み最終日であった。

藤本英樹(BBDF)