「キュビズム」と『貞観政要』。この二つの言葉を並べたとき、多くの人は一瞬首をかしげるかもしれません。前者は20世紀初頭のヨーロッパで生まれた美術運動、後者は7世紀の中国における政治思想書です。時代も分野も、さらには文化や地理的背景もまったく異なる概念ですが、私はこの二つの間にある本質的な共通点に強く惹かれています。
それは「多視点で世界をとらえようとする姿勢」です。
対象を単一の視点で描くのではなく、あらゆる角度から同時に描き出そうとしたピカソの「キュビズム」。そして、自らの視点に固執せず、臣下の声に耳を傾けて統治にあたった唐の名君・李世民。両者は、それぞれの分野において「一つの見方では真実にたどり着けない」という思想を体現していました。今回は、この多視点的哲学の源泉と意義について、美術と政治という異なるフィールドを横断しながら考察していきたいと思います。
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「キュビズム」とは何か:ピカソが挑んだ“見る”ことの再構築
キュビズムは、20世紀初頭にパブロ・ピカソとジョルジュ・ブラックによって生み出された革新的な絵画手法です。
従来の西洋絵画は、遠近法や光の陰影を用いて、現実を「ひとつの視点から見たときの姿」として再現することを目指してきました。ルネサンス以降の写実主義的な絵画においては、画家の視点が“神の視点”のように絶対化されていたのです。
それに対してキュビズムは、ひとつの対象を複数の角度から同時に描こうとします。たとえば、顔の正面と横顔が同時に存在するような構図。立体的なモチーフが解体され、平面上に再構成される手法です。これは単なる技術的実験ではなく、そこには、「ひとつの視点だけで世界を見ようとすること」への根本的な疑問がありました。
ピカソの代表作『アヴィニョンの娘たち』(1907年)では、空間も人物も不安定で、伝統的な美しさとは無縁です。しかしそこには、「私たちが見る世界とは、そもそもどのようなものなのか?」という「問い」が宿っています。ピカソにとって芸術とは、単なる模写ではなく、「現実をどう構造化し、捉えるか」という知的行為だったのです。つまり、キュビズムは「見ること」の哲学的な再定義だったと言えます。
『貞観政要』とは何か:李世民が示した“聞く力”の統治哲学
一方、『貞観政要』は、唐の第2代皇帝・李世民が即位した後に、臣下たちとの間で交わされた議論や訓話を記録した政治思想書です。
唐王朝の安定と繁栄を支えた「貞観の治」の精神的支柱とも言われ、多くの王朝の皇帝たちに読み継がれてきました。その教えは時代を超えて受け継がれ、現代のビジネスにおいても経営者やリーダー層を中心に注目されています。例えば京セラ創業者・JAL再建者である稲盛和夫氏は、この書を枕元に置いて読んでいたとされています。リーダーにとって、独善を避け、周囲の声に耳を傾ける姿勢は、時代や分野を問わず不可欠な資質とされているのです。
この書の中で繰り返し強調されるのは、君主が「人の言に耳を傾けること」の重要性です。李世民は自らの過ちを率直に認め、忠言を拒まない姿勢を貫きました。たとえば、名臣・魏徴が容赦なく皇帝を批判する場面が数多く登場します。李世民は、それを咎めるどころか、むしろ魏徴を「鏡」として尊重しました。
銅を以て鏡と為せば、以て衣冠を正すべし。
(金属の鏡は、身なりを整えることができる。)人を以て鏡と為せば、以て得失を知るべし。
(人=忠臣の鏡は、自分の善し悪しを知ることができる。)古を以て鏡と為せば、以て興替を知るべし。
(歴史という鏡は、国の盛衰を知る手がかりになる。)朕はこの三鏡を以て、以て身を保ち、以て過ちを免る。
(私はこの三つの鏡によって自分を戒め、誤りから逃れようとしている。)
「君主が己の判断にのみ頼るならば、必ずや国を誤る」という認識のもと、李世民は常に複数の視点から政治を見ることを心がけました。その態度は、単なる謙虚さだけではありません。「自分の見ている世界は、常に不完全である」という前提に立った、思考のあり方なのです。
芸術と統治に共通する「多視点」の思想
こうして見ると、「キュビズム」と『貞観政要』には、「見る/判断する」という行為における共通の問題意識が見えてきます。すなわち、「私たちは物事を、たった一つの視点から判断していないか?」という問いです。
ピカソは、ひとつの対象(たとえば人物)を、前・横・上など様々な角度から同時に見たときに初めて、全体像に迫ることができると考えました。李世民もまた、自分ひとりの視点では国政のすべてを把握できないことを自覚し、あらゆる立場からの声に耳を傾けることで、真にバランスの取れた政治判断を可能にしようとしました。
そして、どちらもその試みにより実際に大きな成果を上げたのです。ピカソは20世紀美術の流れを変え、「キュビズム」を現代アートの出発点のひとつとしました。一方の李世民は、「貞観の治」と呼ばれる長期にわたる平和と繁栄を築き、東洋政治史に残る名君として名を刻みました。
ここには、「視点の重層化」と「構造理解」という共通の思考があります。ピカソにとって、対象とは一枚の“絵”として再構成されるものであり、李世民にとっては国家という“構造体”です。そのどちらにも、「部分と全体の関係性を多面的にとらえる」という知性が必要だったのです。
また両者には、「自分の視点を絶対視しない」という共通した姿勢があります。とはいえ、それは単なる謙虚さという言葉で収まりきるものではありません。むしろ、自分の見方が常に限定的であることを前提に、他者の視点を積極的に取り入れ、世界をより立体的に理解しようとする、メタ認知的な知的態度です。多視点的な世界観とは、他者のまなざしに学び、自らの思考を柔軟に更新し続けることにほかなりません。そして、そこにこそ、真の知性や創造性、そして統治の正しさが宿るのです。
現代における“多視点の哲学”の意義
では、このような多視点的思考は、現代の私たちにとってどんな意味を持つのでしょうか。
今、私たちはテクノロジーの発達とともに、かえって視野が狭まりやすい時代に生きています。SNSや検索エンジンのアルゴリズムは、私たちが見たいものだけを見せ、聞きたい声だけを聞かせてきます。これは裏を返せば、「単一視点の世界」に閉じこもる大きなリスクでもあります。
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政治的な分断や社会的対立の根底にも、「自分の視点こそが真実・絶対だ」という思い込みがあるように思います。アートの世界でも、流行や技法だけが独り歩きし、本質的な“見る力”が問われる場面は減っているかもしれません。
だからこそ、ピカソと李世民の姿勢は、今あらためて重要な意味を持つのです。彼らは異なる分野に生きながらも、「世界を一方向からではなく、多方向から捉えること」の知的意義を示してくれたのだと考えています。
多視点で世界を見るという知のあり方
「キュビズム」と『貞観政要』。片や芸術、片や政治。分野も時代も地域・文化圏も異なりますが、その根底にある「多視点の哲学」は、世界をより深く、より的確に理解しようとする知のあり方そのものです。
ピカソが再構成した視覚の世界。李世民が構築した言論の空間。両者が私たちに伝えているのは、「真実にたどり着くには、自分の視点だけでは足りない」という普遍的な知恵です。
私たちもまた、複雑な世界を生きる上で、この「多視点で見る力」を育てていく必要があるのではないでしょうか。
BBDF 藤本