伊勢神宮では、古来より大麻(おおあさ)を用いてしめ縄が作られてきました。大麻は「清め」や「祓い」といった神道の精神に深く根ざした素材であり、日本文化の奥深い知恵のひとつとも言われています。本来、それは決して「危険な植物」などではありません。
ところが現代では、「大麻(たいま)」という言葉を聞いただけで眉をひそめる人も少なくありません。伊勢でしめ縄用の大麻を栽培している農家に対し、「けしからん!」と怒鳴る人が現れることもあると聞きます。まさに見当違いの極致でしょう。こうした反応は、歴史や文化、そして何より用途の違いを理解しようとしない、“思考停止”の一例です。
各家庭に必ずといっていいほど存在する「包丁」にも、同じ構図が当てはまります。言うまでもなく、包丁は人の命を支える「料理」の道具であり、生活に欠かせない存在です。にも関わらず、もし包丁職人に対して「人殺しの道具を作っているとはけしからん!」と非難する人がいたとすれば、どう感じるでしょうか。論理構造としては、前述の大麻批判と何ら変わるところはありません。
重要なのは、モノそのものに罪があるのではなく、問題は常に“人間の使い方”にある、という原則です。この原則を見失うことにより、社会は容易に混乱へと陥ってしまうのではないかと考えます。
では、「核」はどうでしょうか。
日本は唯一の被爆国として、核に対して非常に強い感情を抱いている国です。「核=絶対悪」というイメージが深く染みついているのも、不思議なことではありません。
しかし、核技術は放射線治療や原子力発電、さらには将来の核融合エネルギーなど、人類に恩恵をもたらしうる分野で活用されています。感情的な拒絶は、それら“未来の可能性”をも閉ざしかねません。
もちろん、戦争や核兵器の使用を肯定する意図は一切ありません。ここで問題提起したいのは、「核=悪」という単純な図式に閉じこもることによって、私たち自身の思考が停止してしまってはいないか、ということです。
大麻、包丁、そして核。これらは本来、いずれも中立的な「道具」に過ぎないものです。そこに善悪を生むのは、それを扱う人間の意思であり、用途という文脈なのです。
この「モノと用途の分離」という視点は、AIやSNS、遺伝子編集といった現代のテクノロジーにも当てはまります。どれほど強力な道具であっても、それをどう使うかを決めるのは、常に人間です。従って、問題の本質は常に「人間」そのものにあるのです。
私たちは、モノそのものを恐れたり否定したりする前に、まず自分たちの“意思”と“判断”を問い直す必要があるのではないでしょうか。
過剰な恐怖、無知による拒絶、感情的な短絡思考…こうした“思考停止”を乗り越えたとき、ようやく私たちは、技術も文化も正しく使いこなす力を手にできるのだと考えます。
BBDF 藤本