混乱の時代に必要な「螺旋的時間観」

歴史は終わらず、形を変えて続いていく

先の2025年参議院選挙における与党の大敗と、その後の、まさに「混乱」と呼ぶべき状況に、責任ある立場にある多くの人々は不安を感じていることでしょう。

「この先、日本はどうなってしまうのか?」
「政治の空白が生まれ、社会が混迷するのではないか?」
「総理が“80年談話”を出すと、日本はこの先100年立ち上がれなくなるのでは?」

そんな声が、今、至るところで聞かれています。

では、この「不安の正体」は一体何なのでしょうか?

それは突き詰めれば、「時間はこれまで通り流れていく」という前提が壊れたことによって生じた、“時間意識の喪失”なのではないでしょうか。

「時間は一直線に進む」という思い込み

私たちは無意識のうちに、「時間とはまっすぐ進むものだ」という線形的時間観を信じています。

このため、私たちの社会は、学校で学ぶ歴史は勿論のこと、社会制度の積み上げ、経済成長のグラフ、キャリア構築に至るまで、あらゆるものが「過去→現在→未来」という一方向の時間モデル、つまり直線的な時間観に基づいて設計されています。

この時間観のもと、私たちは「政治はある程度安定し、徐々に成熟していくものだ」と無意識に信じ込んでいるのです。

だからこそ、その“直線”が突然、大きくねじれ、壊れた時、つまり選挙結果や政変によって「予測できない未来」が現れた時に、多くの人が動揺し、恐怖や混乱を覚えるのでしょう。

常識を揺るがす“存在し得ない遺物”たち

少し奇妙な話をします。オカルトに抵抗がある方は、このセクションを飛ばしても構いません。

「OOPArt(Out Of Place Artifacts)」という言葉をご存じでしょうか?文字通り「場違いな遺物」のことで、その時代には存在し得ないはずの技術や構造を持つ遺物が発見され、話題になることがあります。

例えば、イラクで発見された紀元前250年~西暦250年頃の「バグダッド電池」、
1600年以上錆びていないインド「デリーの鉄柱」、
空からでないと全体像が見えない「ナスカの地上絵」、
ルーマニアで約2万年前の地層から出土した謎の金属塊「アイウドのアルミウェッジ」、
そして約5億年前の地層から発見されたとされる「カンブリア紀の金属ボルト」などなど。

いずれも、「常識では説明できない」とされ、失われた古代文明説や宇宙人介入説、タイムトラベル説などと結びつけられることがあります(勿論、いくつかは後に誤認や自然現象による偶然と判明しています。それでも、人がそこに「意味」を見出そうとすること自体が、私たちの時間意識の限界を示しているのかもしれません)。

その中で、信頼性の高いものとして最も注目されるのが、アンティキティラ島の機械(Antikythera Mechanism)です。

1901年、ギリシャのアンティキティラ島沖の沈没船から発見されたこの歯車式機械装置は、その後の研究により、紀元前2世紀のものと判明。太陽や月、惑星の運行周期を計算できる天文計算機であり、現代でいえばプラネタリウムや暦計算機に近い構造を持っていました。

30以上の精巧な歯車から成るこの機会は、“世界最古のアナログコンピュータ”とも呼ばれ、現在は正式な学術対象となっています。

しかし驚くべきことに、このような複雑な歯車技術が歴史上再び現れるのは、中世ヨーロッパの14世紀頃、機械式時計の登場を待たなければなりません。つまり、約1,000年にわたる技術の空白期間があるのです。

これは、人類の技術史における“断絶と再構築”を象徴する事例であり、私たちの「時間は連続するものだ」という前提に、強烈な違和感を突き付けてきます。

「未来が過去にある」ことの意味

こうしたOOPArtは、文字通り「未来的なものが過去にある」ことを示唆しています。

宇宙人介入説やタイムトラベル説に走るのは簡単ですが、より論理的に考えるなら、それらの技術や知識が実際に“かつて存在していた”という事実を受け入れた上で、私たちの側の「時間観」の方にこそ疑問を投げかけるべきではないでしょうか。

「螺旋的時間観」という“希望”

このような問いに応答する形で、近年、哲学や歴史思想の中で注目されているのが「時間の非直線性」という考え方です。

例えばニーチェの「永劫回帰」。すべては永遠に同じように繰り返される、という概念で、「反復」への哲学的問いを提起しました。

ベルクソンの「持続(デュレー)」は、時間は量的ではなく質的であり、主観的に異なるリズムを持つと説いています。

ミルチャ・エリアーデの神話的時間観は伝統社会では“始原の時間”に回帰する儀式に意味を見出しており、線形時間からの一時的脱却と言えます。

ドゥルーズ&ガタリが提唱するのは、過去と未来が今ここに折り重なって存在するネットワーク型時間観です。

そして、これら「時間の非直線性」の延長にあるのが、「螺旋的時間観」です。これは、時間は単なるループではなく、進化を伴って反復する構造であるというもの。

同じようなテーマや課題が、時代を超えて繰り返されるが、その度に異なる次元へと進化して行く、という“スパイラル(螺旋)型”の歴史観です。

例えば、ドイツの哲学者・経済学者であるカール・マルクスが『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』で述べている以下の皮肉な歴史観は、その象徴でしょう。

"Hegel bemerkt irgendwo, daß alle großen weltgeschichtlichen Tatsachen und Personen sich sozusagen zweimal ereignen. Er hat vergessen hinzuzufügen: das eine Mal als Tragödie, das andere Mal als Farce."

「ヘーゲルはどこかで、すべての偉大な世界史的出来事は二度起こると言っている。だが彼は、こう付け加えるのを忘れていた。“一度目は悲劇として、二度目は茶番として”。」

このように、螺旋的時間観は単なる哲学的思考に留まらず、社会の変化に対する「構造的な理解」と「精神的な余裕」をもたらす、思考の枠組みなのです。

歴史に見る“混乱”の先にあったもの

日本の歴史を見ても、この「螺旋」は何度も現れています。

明治維新は封建制度の崩壊と激しい政治的混乱を伴いながら、近代国家への転換点となりましたし、終戦後の占領期は、国家主権が失われた時代でしたが、民主主義と平和主義の種がまかれました。また、バブル崩壊後の「失われた30年」は、経済モデルの問い直しと多様性の芽生えの時代となりました。

これらに共通しているのは、一時的な“崩壊”が、次の時代への“準備”となっていたということです。

今、私たちに必要なのは「線を描く力」ではなく「螺旋を描く力」

私たちが直面している政治の混乱や不安定さは、決して“終わり”ではなく、「次の螺旋に移るためのねじれ」であり、進化の起点なのです。

このような時間観を持つことで、不安が完全に消え去るわけではないでしょうが、不安を時間軸の中で相対化し、再配置する力は確かに得られるはずです。

未来は、予測するものではありません。
それは、私たち自身が、揺らぎの中に意味を見出し、形作っていくものです。

私たちは今、直線の終点に立っているのではありません。螺旋の“上昇転換点”にいるのです。この不安は、「新しい日本を迎えるための陣痛」なのではないでしょうか。

不安の中に“物語”を見出す哲学

OOPArtが時間に裂け目を作るように、政治的混乱もまた、社会に新たな問いを立てる契機となります。

「私たちはどこから来たのか」
「今、何を壊し、何を守るべきか」
「この次の時代を、どう作るのか」

そういった問いに向き合うことで、私たちはただの“不安な庶民”ではなく、「当事者として歴史の螺旋を一段上に運ぶ存在」になれるはずです。

今はまだ、風景はぼやけ、足元は揺らいでいるかもしれません。それで良いのです。螺旋の先端に立つとは、そういうことだからです。

歴史が終わることはありません。形を変えながら、私たちと共に続いていくのです。

単純なスローガンや二元論では、もはや時代を乗り切ることはできません。
私たちは今、歴史の分岐点に立っているのです。
深く考え、問いを持ち、螺旋を描くように、次の社会をともに構想していきましょう。

BBDF 藤本