思考を飽和させる「音の壁」

ヘヴィメタル「音圧戦争」とBANI時代の過剰空間論

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ある40年メタラーの違和感:
なぜ最新のメタルは「2曲で限界」なのか

40年近くにわたり、ヘヴィメタルという音楽を愛聴し続けてきた。しかしここ数年、リアルタイムで発表される新譜を聴く際に、どうしても拭えない強烈な違和感を抱くようになっている。

楽しめないのだ。聴いていて疲れる。
正直に言うと、アルバムを通して聴くどころか、2曲が限界。

最初は「自分も歳を取って、激しい音についていけなくなったか…」とも考えた。しかし、どうやら原因は自分の加齢ではないようだ。なぜなら、80年代にリリースされた当時のアルバムであれば、今聴いても何の問題もなく通しで楽しむことができるからだ。

一方で、最近の若手バンドの新譜はもちろん、当時から活躍しているベテランバンドの最新作や、過去の名盤とされるアルバムの「最新リマスター盤」ですら、同じように疲弊してしまう。

これは決して単なる郷愁や思い入れの問題ではないはずだ。当時は存在すら知らなかった80年代のマイナーバンドの音源を今初めて聴いても、一切疲れることなく楽しめるからだ。

演奏技術も、楽曲のクオリティも、現代のアルバムの方が圧倒的に向上している。それにもかかわらず、なぜ私の脳と耳は現代の音を拒絶するのだろうか。

思考を巡らせるうちに、その原因は楽曲そのものではなく、「音圧」と「人間的な余白の有無」にあることが見えてきた。

現代メタルを支配する
「音圧戦争」と「完璧主義」

現代のメタル・アルバムの多くは、音楽業界で「Loudness Wars(音圧戦争)」と呼ばれる過酷な競争の論理に乗っ取って制作されている。コンプレッサーとマスタリング処理によって極限まで増幅された音圧が、すべてのパート、すべての曲に等しく適用されているのだ。

さらに、音作りの現場では、極限の効率と明瞭さを求めてデジタル技術が駆使されている。

代表的なものが、ドラムのトリガー・サウンドだろう。これはドラムの生の打音を、あらかじめ録音された完璧なサンプル音にリアルタイムで差し替える技術だ。特に高速かつ複雑なフレーズが交錯する現代のメタルでは、生音が音の波に埋もれてしまいやすくなる。それを回避するため、「誰がどんなコンディションで叩いても、100%同じ音量と音色で鳴るサンプル音」を貼り付ける手法が業界標準となっている。

さらに、クオンタイズと呼ばれるタイミング補正技術によって、演奏のズレはグリッド上に完璧に修正される。ミスピッキングもミスフレージングも跡形もなく消し去られ、そこには「寸分の狂いもない完璧な演奏」が残るのだ。

最適化・アルゴリズム・経済の論理

なぜ、これほどまでに無機質な音作りが主流となってしまったのか。そこには現代の音楽消費環境と、経済的な効率主義の要請があると考えられる。

第一の理由は、リスニング環境の変容だ。

ストリーミングサービスを介し、スマートフォンや安価なワイヤレスイヤホン(AirPodsはそこそこするが)で音楽を聴くことが主流となった現代において、ダイナミックレンジ(音の強弱の幅)が広いオーガニックな音源は、都合が悪いのだ。静かなパートは周囲の騒音にかき消され、激しいパートだけが突発的に大きく聞こえてしまうからだ。このようにして「どんな騒音環境やチープな再生機器であっても、すべての音が均一に大きく聴こえること」がマスタリングの至上命令となった。

第二の理由は、アルゴリズムとプレイリストの競争だ。

次々と曲が切り替わるストリーミング環境において、他バンドの曲より音量が小さい楽曲は、瞬時に「迫力がない」「ショボい」と判断されスキップされてしまう。バンドもレーベルもエンジニアも、埋没を恐れるがあまりに音圧を上げ続ける悪循環に陥った。

そして決定的なのが、芸術への「経済的効率主義」の侵入だ。

トリガーやクオンタイズは、スタジオレコーディングの時間と制作コストを劇的に削減するものだ。かつてスティーリー・ダン(Steely Dan)が追求した完璧主義は、人間演奏の極限のニュアンスや空気の鳴りという「オーガニックの頂点」を目指すものだった。しかし現代の完璧主義は、工程の省力化と標準化のための「デジタル的均一化」だ。コスト削減と失敗の排除を求めた結果、音楽から人間的な揺らぎが奪われていったのだ。

失われた「人間的余白」と
Listener Fatigue(聴覚疲労)

このようなデジタル技術と効率主義がもたらした最大の罪は、音楽が本来持っていた「オーガニックさ」、すなわち「余白」をことごとく削ぎ落としてしまったことにある。

過度なトリガーや補正によって、ゴーストノートの微小なタッチ、シンバルの余韻、演奏者が生み出す「タメ」や「走り」といった人間的な揺らぎ、「ミスすらもグルーヴに変えてしまう」ダイナミズムが消滅したのだ。本来、音楽に奥行きを与えていた「余白」という要素が排除され、常にフルスロットルで余裕のない音の壁が構築されてしまった。

この状態が引き起こすのが、音響エンジニアリングや医学の分野で知られる「Listener Fatigue(聴覚疲労)」という状態だ。

人の耳は、大きな音が途切れなく持続すると、防衛本能として内耳の筋肉(アブミ骨筋など)を収縮・緊張させる。適切なダイナミクスが存在すれば、音が小さくなった瞬間に耳と脳は休息を得ることができるが、最初から最後まで音圧がMAXの状態で全帯域が埋め尽くされていると、耳と脳には休む瞬間が存在しない。

私が現代のメタルを「2曲で限界」と感じてしまうのは、加齢による感性の衰えではなく、過剰な音圧の波状攻撃に対して、脳と身体が自衛のために「これ以上は危険だ」と発していた生理的な拒絶シグナルだったのだ。

認知の飽和がもたらす
「Anxious」と「Brittle」

この「聴覚疲労を引き起こす過渡な音圧」は、まさに現代社会を象徴する時代概念であるBANI(Brittle:脆く、Anxious:不安で、Non-linear:非線形で、Incomprehensible:理解不能)の構造と完全に同期するものだ。

特に着目すべきは、「Anxious(不安)」との関連性だ。

かつてのアナログ録音における「音の余白(静寂や強弱のダイナミクス)」は、聴き手にとって思考や感情、解釈を介入させる余地(スペース)だった。私たちは音楽の行間を読むことで、深い没入感を得ていた。

しかし、空間を隙間なく音で埋め尽くす現代のマスタリングは、高解像度の情報(信号)を休むことなく脳へ叩き込み続ける状態を強制する。これは、現代人がSNSのタイムラインやスマートフォンからの絶え間ない通知の波に晒され、常に緊張状態を強いて認知の飽和を起こしているメカニズムと全く同じだ。生理的メカニズムである「Listener Fatigue(身体の摩耗)」こそが、心理的・認知的な「Anxious(脳の過負荷・不安)」の物理的実体であると言える。

同時に、これは「Brittle(強固に見えて脆い)」の構造とも重なる。

生の演奏とは本来、感情の高ぶりによってテンポが走り、音が太くなるといった「Non-linear(非線形・予測不能なゆらぎ)」なドラマを孕んでいる。それを無理やりグリッド(格子)上に押し込め、不完全さを完璧に排除した音は、一見すると強固なものに思える。

しかし、人間の生身の耳と脳は、機械的すぎる完璧さに対して無意識の異物感や不自然さを感知する。歪みや余白を失った「均一な音の壁」は、表面上の強固さとは裏腹に、聴き手との感情的な深い繋がりという点においては極めて「Brittle(脆い)」な構造に成り下がっているのだ。

過剰適応の果てに
「揺らぎ」を取り戻す人々

しかし、希望的な兆候もある。過度なデジタル処理と音圧過多に対するアンチテーゼとして、オーガニックな「余白」を取り戻そうとする反作用の動きが顕著になりつつあるのだ。

その筆頭が、世界的なムーブメントとなっているNWOTHM(New Wave of Traditional Heavy Metal)の台頭や、オールドスクール・デスメタル(OSDM)の再評価だ。これらの若手バンド群は、80年代のメタルの質感や録音手法(アナログテープ、一発録り、トリガー不使用の生のドラムサウンド)をあえて採用し、歪みやザラつき、人間的なグルーヴを活かした粗削りなサウンドで熱狂的な支持を集めている。

また、配信プラットフォーム側にも変化が見られる。SpotifyやApple Musicなどのストリーミングサービスは、過度に音圧を上げた楽曲を自動的に適正な音量レベルへ引き下げる「ラウドネス・ノーマライズ(Loudness Normalization)」を導入した。

この仕様変更により、「無理に音圧を上げてもノーマライズで音量を下げられ、かえってダイナミクスのない潰れた音として弱く聴こえてしまう」という認識がエンジニア間で浸透し始めた。過渡期ではあるものの、再び適切なダイナミクスを確保するマスタリングへの回帰が少しずつ進んでいるのだ。

不安の時代に
「息づかいを聴く」ということ

80年代のヘヴィメタルが私の心を震わせたのは、そこに真空管アンプが物理的に空気を揺らす音があり、ドラマーの打音の強弱が生み出す大きなうねりがあり、アルバム1枚を通した物語(ダイナミクス)が存在していたからだ。

音楽は常に社会を映し出す鏡だ。「音圧戦争」は、単なる録音技術や音響機器の変遷の記録ではない。効率、均質化、過酷な競争、環境への過度な最適化という、現代の経済社会が抱える価値観が、芸術の領域にまで浸透した結果そのものなのだ。

だからこそ今、私たちが再び「揺らぎ」や「余白」を求め始めている現象は、単なる懐古趣味(ノスタルジー)ではない。

絶え間ない情報圧と「Anxious(不安)」に支配されたBANI時代において、私たちが人間としての感覚や「息づかい」を取り戻そうとする、きわめて健全で前向きな生命の反作用なのだ。

藤本英樹(BBDF)