「これでいいのだ」の再設計─AI時代を生き抜く“バカ”のすすめ【最終話】

頭の部品を手放して、生きていく ~バカという選択、自由という希望~

· Insights,Business

はじめに:「バカ」はゴールか、スタートか

この連載を通じて、私たちはずっとひとつの謎に取り組んできました。それは、バカボンのパパがくしゃみで飛ばしてしまった“頭の部品”とは、いったい何だったのか? という問いです。

かつて天才だった彼は、その部品を失い、「ただのバカ」になりました。でもその姿は、誰よりも自由で、誰よりも楽しそうで、誰よりも人に愛されていました。

この“頭の部品”こそが、現代社会が私たちに無意識に植えつけた「ちゃんとしなきゃ」という強迫観念のメタファーだったのではないでしょうか。

AI時代の幕開けと、“賢さの終焉”

これからの社会は、ますますAIによって“賢いこと”が代替されていきます。

  • 複雑な計算 → AIが得意
  • 大量のデータ処理 → AIが秒速でこなす
  • 論理的な推論 → もはやGPTでもできる

では、人間が賢さで勝負する意味はどこにあるのでしょう?

おそらくそこに、“賢さを手放す勇気”、つまり「バカになる」ことの意味が見えてきます。

アントニオ猪木の言葉に学ぶ「馬鹿になれ」

ここで、プロレスラーであり、哲学者のような言葉を多く残したアントニオ猪木の名言を引用します。

「馬鹿になれ。とことん馬鹿になれ。」

「恥をかけ。とことん恥をかけ。」

「かいてかいて恥をかき捨てろ。裸になったら見えてくる、本当の自分が。」

これは、ただの精神論でも根性論でもありません。それはまさに、「社会的な正しさ」や「体裁」を脱ぎ捨てた先にある“人間の本質”を見つめる言葉です。

猪木が言う「馬鹿」も、バカボンのパパが体現する「バカ」も、共通するのは“笑われることを恐れず、他者とまっすぐ向き合える自分”です。

バカになることは、逃避ではなく選択

バカボンのパパのように生きることは、社会からドロップアウトすることではありません。

肩書きがなくても、役に立たなくても、成果がなくても、ただ、誰かのそばにいて、笑って、つながっている。

そうした在り方を意図的に選び取ることこそ、AI時代の「自由」の形なのです。

頭の部品とは、「正しくあらねば」という呪いだった

最後にもう一度、あの“部品”の正体を定義しておきましょう。

  • 正解を出さねばならないという焦り

  • 評価されないと存在できないという恐れ

  • 社会的に意味あることをしなければならないという思い込み

…そうした、“賢く生きなければならない”という重たい部品だったのです。

バカボンのパパは、それをくしゃみで偶然手放しました。私たちは、意識的にそれを外すことができるのではないでしょうか?

「これでいいのだ」は、祈りであり哲学である

この連載のタイトルにもした「これでいいのだ」という言葉。それは、何もかも許されるという“ゆるさ”ではなく、今ここにある自分を、そのまま肯定する力強い宣言です。

世界がどうあろうと、

仕事がうまくいかなくても、

誰にも評価されなくても……

「これでいいのだ」と言える人は、強い。

その強さを、私たちは「バカ」の中に再発見できるのです。

おわりに:バカボンのパパは、AI時代の自由人だった

彼は何も持たず、何も成し遂げません。何も考えていないように見えます。しかし、彼のまわりには笑いがあり、ゆるやかなつながりがあります。

社会のネジがきつく締まりすぎた今、「バカになること」は、もしかしたら人間らしさを取り戻すための最高の知恵かもしれません。

だから私は、こう締めくくりたいと思います。

「頭の部品が飛んでしまったって、これでいいのだ。」

「馬鹿になれ。とことん馬鹿になれ。」

BBDF 藤本