バカボンのパパは、何もしていない。
バカボンのパパは、働いておらず、何かを成し遂げるわけでもありません。明確な肩書きもありません。にもかかわらず、彼が“空気のように町にいてくれる”ことが、なぜか周囲に安心や笑いを生み出しています。
彼が「価値を生む」のは、“何かをする”ことによってではなく、「誰かと、ただそこにいる」ことによってなのです。
「役に立つ」から「共にいる」へ
現代社会は長らく、「価値」とは成果や生産性によって測るものだと考えてきました。しかし、AIが人間の代わりに正確に、速く、多くのことをこなすようになる今、
「人間の価値って、何?」
「働かずに、ただ人と笑い合ってる時間に意味なんてあるの?」
そんな問いが、急速にリアルになってきています。
“何もしない時間”が、いちばん価値のある時間になる
子どもとソファでだらだら過ごす夕方。
夫婦でお茶を飲みながら、とりとめのない話をする夜。
友だちと黙って並んで歩くだけの帰り道。
これまでの社会では、こうした時間は「余白」「贅沢」「無意味」「無駄」とされてきました。
でも、もしかすると、こうした“何もしない時間”こそが、人間にとって本来最も意味のある時間なのではないでしょうか。
AIが仕事を代替する社会で残るのは、「計算されない感情」であり、「効率化できない共感」であり、そして、“一緒に笑う”という不可視のつながりです。
それらを生み出す力こそ、人間が未来に持ちうる最大の価値だと考えます。
“つながっているだけ”の人に、社会は価値を与えられるか?
ここで問うべきは、制度や経済の側が、そうした価値にどう向き合えるか?ということです。
「成果を出さなくても」「利益を生まなくても」「ただ人と共にあるだけで」…そうした存在に、「ありがとう」や「報酬」や「居場所」が与えられる社会は可能なのでしょうか?
バカボンのパパのような人を、「無価値な人」と切り捨てるのではなく、「ただいてくれてありがたい」と思える社会。
それは単なる福祉ではなく、人間中心の再構築された経済と倫理です。
「評価されない行為」に意味を与えるAI時代の視点
今後、AIは更に多くの「評価できる仕事」を代替していきます。つまり、“何をしたか”で人間を評価する社会そのものが、限界を迎えるということです。
代わりに残るのは、「していないこと」の価値。たとえば
- 怒らず、笑ってくれる人
- そばにいて、話を聴いてくれる人
- 特に何も言わず、静かに寄り添ってくれる人
これまで可視化されなかった“非成果的ふるまい”が、人間にしかできない領域として立ち上がってくるのです。
「これでいいのだ」という存在の仕方
バカボンのパパは、評価されることを望みません。役に立とうとしていないのに、なぜか人を笑顔にします。
彼が持っているのは、“ただいること”を肯定する力です。
この世界には、「それでいいんだよ」と言ってくれる人が必要です。そしてその言葉を本気で言える人は、「何かを成し遂げていない人」なのかもしれません。
【次回(最終回)予告】
頭の部品を手放して、生きていく ~バカという選択、自由という希望~
連載はいよいよ最終回へ。
バカボンのパパが“くしゃみで飛ばした”頭の部品とは、いったい何だったのか?それは、「ちゃんと生きなければいけない」という強迫観念だったのかもしれません。
そして、AI時代を生きる私たちはいま、その“頭の部品”を手放すタイミングに来ているのかもしれません。
BBDF 藤本