多様性は成果か、倫理か

オリヴィエ・シボニー論に見る現代の揺れとその射程

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多様性と業績の関係性:シボニー教授の主張とその波紋

昨日(2025年5月18日)、Yahoo!ニュースに掲載された記事「フランスで話題の書『多様性と業績は無関係』の著者が言いたかったこと」 (参照リンク)は、フランスの経営学者オリヴィエ・シボニー(Olivier Sibony)氏の新著『多様性は、あなたが思っているものとは違う』(La diversité n’est pas ce que vous croyez・未邦訳)を取り上げ、多様性と企業業績の関係性についての議論を紹介しています。

シボニー氏は、企業が多様性を推進する際に、業績向上を主な目的とするのではなく、倫理的・社会的責任として取り組むべきであると主張しています。彼は、多様性が企業の業績を直接的に向上させるという明確な証拠は乏しく、むしろ多様性の推進は倫理的な観点から行うべきだと述べています。

この主張(著書)は、企業が多様性を業績向上の手段として利用することへの警鐘と受け取られ、多くの反響を呼びました。特に、日本では記事のタイトル「多様性と業績は無関係」という部分だけが注目され、記事の内容を十分に読まずに反応するケースが見受けられます。これは、情報の一部だけを切り取り、全体の文脈を無視する「タイトル読み」の傾向が強まっている現代の情報消費の一端を示していると言えるでしょう。

シボニー氏の主張は、多様性推進の目的や方法について再考を促すものであり、企業や社会全体が多様性をどのように捉え、実践していくべきかを考える契機となっています。

その論理の強みと、見落とし:厳しく読み解く7つの批判点

オリヴィエ・シボニー氏の問題提起は、多様性の“成果神話”に対する冷静なカウンターとして非常に意義深いものです。特に、企業がDEIを「倫理」ではなく「業績アップのツール」として扱いがちであることへの批判は、ビジネス界にとって耳の痛い指摘でしょう。

一方で、この主張にはいくつかの見落としや論理の飛躍も見受けられます。以下では、その論理構造を厳しく読み解き、現代の多様性論をよりバランスよく再構成するための7つの視点を提示します。

① 「実証されていない」=「効果がない」という誤認識

シボニー氏は「多様性が業績向上につながるという因果関係は、これまでの研究で実証されたことがない」と述べています。しかしこれは、「効果がない」と断言する根拠にはなりません。実証が難しいのは、組織の業績が多変数の影響を受けるからであり、統制困難な要素が多すぎるためです。

つまり、「はっきり立証できない」ことと、「意味がない」ことは、まったく別の話です。

② ステレオタイプ否定と多様性懐疑が共存する矛盾

企業のリーダー像に関するステレオタイプ~たとえば「強気・自信過剰・カリスマ性=理想的経営者」~が、女性排除の構造につながっているという点は、シボニー氏の鋭い洞察です。

しかし、そうした構造を批判する一方で、「人口統計的な多様性が組織にとって意味があるとは限らない」と述べてしまうと、「結局、マジョリティ中心の組織に戻ればいい」という結論に利用されかねない危険をはらんでいます。

③ 多様性の“マイナス面”の強調に偏りすぎている

記事でも紹介されているように、シボニー氏は「多様性のあるチームでは緊張やコミュニケーションの困難が増える」と述べています。これは現場での実感にも近い部分でしょう。

ただし、それはインクルーシブな組織文化やリーダーシップが未整備のまま、多様性だけを形式的に導入した場合に限られる話です。心理的安全性や公平なフィードバック設計が伴えば、多様性はむしろイノベーションを生み出す源泉になります。

④ DEI研修を“一括りに否定”してしまう短絡

IAT(潜在連合テスト)の信頼性が低いという指摘は事実です。しかし、それをもって「多様性研修全体が無意味」と断じるのは早計です。

自己認識を促し、具体的な行動変容を伴うように設計された研修プログラムも存在し、導入・運用の質にこそ差があるのです。プログラムの中身と効果検証こそが問われるべきであって、方法論すべてを退けるのは極論と言えるでしょう。

⑤ 「倫理で語るべき」としながら、倫理論に踏み込まない

シボニー氏は「多様性は倫理と法の原則で語るべき」と語ります。実にもっともな指摘です。しかしその割には、「なぜ倫理としての多様性が重要なのか」という踏み込みは弱く、主張が抽象的にとどまっています。

たとえば、差別されてきた人々の歴史、社会的再配分の議論、構造的不平等への補正など、“倫理”の具体的中身に対する説明が欠けているのは惜しいところです。

⑥ 「性差は微弱」と言いつつ、それを前提に語る場面がある

「性差は統計的に微弱であり、実務的な意味はほとんどない」と言いながらも、「リスク志向は男性に多い」「女性は昇進に手を挙げにくい」といった言及が見られます。

それが組織文化や制度によって作られているとするなら、なおのこと「性差のデータを強調すること自体が再生産になる」という点には、より慎重さが求められます。

⑦ 制度改革提案の“理想化”と実行難易度

立候補制を廃止し、能力を基に選抜する。給与交渉を禁止し、透明な給与体系を導入する。いずれも合理的で魅力的な提案です。しかしながら、それを実装できるのは組織文化・人事制度・経営陣の成熟度が一定以上の企業に限られます。

つまり、これらは「正論」ではあっても、「どこでもできる実践論」ではないのです。

冷静な批判は必要、しかし過度な一般化は避けたい

オリヴィエ・シボニー氏の主張は、「成果至上主義に依存したDEI推進」に対する極めて重要な警鐘です。しかし同時に、それを拠り所にして「だから多様性はいらない」「DEIは幻想だ」という極端な議論に飛びつくのは、それこそ“脊髄反射的思考”であると言えるでしょう。

なぜ今「DEI懐疑論」が噴出しているのか:背景にある5つの潮流

オリヴィエ・シボニー氏の論考が注目を集めた背景には、単なる「本の主張」以上に、今世界で起きている価値観の揺り戻しという潮流があります。

ここ数年、特にアメリカでは「DEI(Diversity, Equity, Inclusion)疲れ」とも言える現象が顕著になっています。多くの企業や大学がDEIプログラムを見直し、時には撤回する動きまで見られるようになりました。そしてその流れは、政治やメディアを通じて欧州や日本にも波及しつつあります。(ブログ内参照リンク

この「懐疑の空気」を読み解くには、少なくとも以下の5つの要因を視野に入れる必要があります。

① トランプ政権以降の「反PC文化」とアイデンティティ政治への反発

2016年に誕生したトランプ政権は、「政治的正しさ(ポリティカル・コレクトネス)」に対する露骨な反発を言語化し、支持基盤を拡大しました。彼はあからさまに差別的ともとれる発言を繰り返しましたが、支持者たちはそれを「本音」や「率直さ」として歓迎しました。

この時期から、「多様性推進」や「DEI」は、「左派エリートの道徳押しつけ」として批判され始めます。いわば、“リベラルが進める正義”に対するカウンターカルチャーが可視化されたのです。

② DEIは“都市のエリート文化”であり、地方・労働層の現実とは乖離している

DEIの中心にいるのは、ハイレベルな教育を受け、都市部の大企業や大学に所属する人々です。彼らにとっては「インクルージョン」「マイクロアグレッション」「エクイティ」といった言葉は常識かもしれません。

しかし、地方や労働集約型の産業で働く人々にとって、こうした言葉は現場感覚とかけ離れた“上級の言葉遊び”に映ることがあります。こうした感覚の断絶が、「DEIって何のためにやってるの?」という冷笑や無関心、時に敵意を生んでいます。

③ アファーマティブ・アクション制度の疲労と「逆差別」論

アメリカでは、黒人やヒスパニックなど歴史的に不利な立場に置かれてきた人々に対して、大学入試などで“配慮”を加えるアファーマティブ・アクション政策が長く行われてきました。

しかし近年では、アジア系の学生が「逆差別」を受けているとして訴訟を起こし、2023年には米国最高裁がアファーマティブ・アクションを違憲と判断するに至りました。これはDEI政策にとって重大な制度的後退であり、「平等の名のもとに、不公平が生まれていないか?」という社会的問いが再び浮上しています。

④ 見せかけだけの“DEIアピール”に対する幻滅

多くのグローバル企業が「多様性指数」や「女性管理職比率」を掲げ、ESG文脈で投資家の評価を得ようとしてきました。しかし実態はどうかと言えば、「見せかけの数合わせ」や「ノイズとして扱われる研修」が横行し、現場レベルではむしろ疲弊や抵抗が蓄積しているケースもあります。

形式主義的DEIが続く限り、「多様性は何の役にも立っていない」「むしろ現場を混乱させている」という批判が正当化されやすくなってしまいます。

⑤ 司法・政治による「制度的バックラッシュ」の進行

アメリカではトランプ政権期に保守派の判事が最高裁多数派を占めるようになり、DEI関連の制度を法的に「解体」する地盤が整いました。

2023年の最高裁判決だけでなく、各州でもDEI研修やプログラムの「禁止法案」が可決される例が相次いでいます。つまり、反DEIは単なる“空気”ではなく、制度として後退させられているというのが現在のリアルなのです。

今は「行き過ぎたDEI」からの揺り戻しの時期

以上を踏まえれば、オリヴィエ・シボニー氏のような“多様性と成果は無関係”という冷ややかな論考が注目されるのも当然と言えます。今はまさに、DEIという理念の理想と、制度・現場の実態とのギャップに社会全体が気づきはじめ、「このままでは機能しない」と感じているフェーズにあります。

しかし、ここで“じゃあ多様性なんてやめよう”と短絡的に思考停止してしまえば、それこそ振り子の逆振りであり、またしても排除と不平等を生むことになります。

「ではどのようにすれば、DEIを持続可能な形で組織に根づかせることができるのか?」

その問いに対して、再構成された多様性論の提案をしてみます。

多様性の本質を再定義する:再構成された多様性論の提案

ここまで見てきたように、DEI(多様性、公平性、包括性)をめぐる議論は、功利主義と倫理主義、推進と反発の間で振り子のように揺れ続けてきました。オリヴィエ・シボニー氏の問題提起が象徴するように、「多様性は本当に成果を生んでいるのか?」という問いが今、改めて社会に投げかけられています。

この揺れを止める必要はありません。むしろ、揺れながらバランスを見つけていくことこそが成熟した社会の証です。ここで求められているのは、「多様性は善か悪か」といった二項対立ではなく、「どうすれば多様性が社会や組織に機能するのか」という中間設計の知恵です。

そのために必要な視点は、以下の通りです。

① 多様性は「資源」であり、「条件付きの価値」である

多様性はそれ自体が魔法の杖ではありません。単に人種や性別が異なるメンバーが集まっても、創造性やイノベーションが自然に生まれるわけではないのです。

多様性は、適切に設計された組織構造と文化の中で初めて“資源”として機能します。心理的安全性、包摂的なリーダーシップ、信頼を育む対話の文化。そうした前提条件が揃って初めて、多様性は組織のパフォーマンスや創造性と結びつくのです。

要するに、多様性は「無条件の善」ではなく、「使いこなすべき資源」なのです。

② 「誰がいるか」より「どう活かすか」が問われるべき

数値的な多様性(いわゆる“数合わせ”)に偏った指標は、むしろ逆効果を生みます。性別や人種だけで「視点の多様性」が確保されたと思い込むことは、逆に“本質主義”(ステレオタイプの強化)を再生産しかねません。

大切なのは、「この人がここにいる理由が、組織にどのような新しい問いや視点をもたらすのか?」を問い続けることです。

③ 「平等な選抜」とは、同一のルールを当てることではない

たとえば立候補制や昇進時のポテンシャル評価は、表面上は公正に見えますが、既存のステレオタイプや自信格差をそのまま再生産する装置になりやすいのです。

  • 立候補制では、自信過剰な人(往々にして男性)が前に出やすい
  • 給与交渉制度では、強気な人(同様に男性に偏る傾向)が得をする

したがって、本当の意味での「公正」とは、制度が平等に設計されていることだけではなく、結果として誰もが機会を持てるように「構造が調整されていること」が重要です。

④ 「ステレオタイプな理想のリーダー像」を捨てよ

強気でカリスマ的で、メディアに出たがりで、圧倒的な自信を持つ。そんなリーダー像は、現代の複雑な経営環境において必ずしも最適とは言えません。事実、穏やかで傾聴力があり、組織の信頼を静かに築いていくリーダーの方が、長期的にはパフォーマンスを出しているケースも増えています。

今こそ、「どんな性別や属性の人がなるか」ではなく、「どんな資質を持った人が、今の組織に必要か?」という問い直しが求められます。

⑤ 多様性は「成果」ではなく「副産物」であるべき

真に公平で実力主義的な組織をつくれば、おのずと多様な人材が上がってくるはずです。逆に言えば、組織の上層部が一色で染まっている場合、それは「実力が足りない人がいない」からではなく、「評価や選抜の設計が偏っている」からかもしれません。

つまり、多様性とは「目標」ではなく、「健全なシステムが生んだ結果」であるべきなのです。

「設計思想」としてのDEIへ

行き過ぎたDEIを否定し、揺り戻しを起こすことは悪いことではありません。むしろ、機能しない制度を一度立ち止まって見直すことは、成熟した社会に必要な営みです。

大切なのは、「そもそもDEIはどうあるべきか」を構造設計のレベルで問い直すことです。

多様性は成果をもたらすこともあれば、軋轢を生むこともある。だとすれば、それを成果につなげるかどうかは、制度と文化のデザイン次第です。DEIは理念ではなく、「設計思想」として捉え直すフェーズに来ているのかもしれません。

振り子としてのDEI:健全な揺り戻しを受け入れる視点

DEI(多様性・公平性・包括性)をめぐる議論は、いま大きな揺れの中にあります。一時は「やらなければ社会的に遅れている」といった空気が支配していたにもかかわらず、ここへ来て「効果が不明瞭」「逆差別だ」「現場に負担がかかる」といった声が目立つようになりました。

それは、DEIという概念そのものが間違っていたからでしょうか?私は、そうは思いません。

これは、多くの社会改革がたどる「振り子の軌道」の一部なのだと私は考えています。価値観の変革というのは、最初は過補正的に進み、そこから反動が起き、その振動を繰り返すことでようやく“ちょうどよい場所”に落ち着いていくものです。

行き過ぎた「理念偏重」から、設計と運用のフェーズへ

一時期、DEIは「やること自体が善」であり、「どんな内容かは問わない」風潮すらありました。数値目標の達成や、スローガンとしての採用が目的化され、「なぜやるのか」「どうすれば機能するのか」という議論は後回しにされがちでした。

その反動として、「もうやめたほうがいい」という声が上がるのは、ある意味当然とも言えます。ですが、ここで私たちが取るべき姿勢は、否定ではなく“次の問い直し”です。

  • この制度設計は、全員の可能性を引き出す構造になっているか?
  • 評価や登用のプロセスは、ステレオタイプに左右されていないか?
  • 多様性が力になるような対話と心理的安全性は育っているか?

こうした問いを持ち続けることが、「振り子が中庸に戻る」ことに繋がっていくのだと思います。

思考停止的な「DEI不要論」に乗るべきではない

オリヴィエ・シボニー氏の論考は、多様性に対する冷静な批判として有意義なものです。しかし、それを単純に「だからDEIは意味がない」と読み替えるのは、まさにタイトルだけを読んで反応する“脊髄反射的思考”の罠に他なりません。

多様性推進の形骸化を批判することと、多様性そのものを否定することは違います。後者に転んでしまえば、かえって本来の目指す社会から遠ざかることになってしまいます。

小さな制度変更が、文化を変える

ここで強調したいのは、DEIを「思想」ではなく「設計思想」として捉えることの重要性です。たとえば

  • 昇進候補者を立候補制にせず、適性に基づいて人事が推薦する
  • 給与交渉の自由をなくし、レンジと透明性で評価する
  • 会議での発言回数や遮られやすさをモニタリングする

こうした地味で実務的な設計変更こそが、本当の意味での多様性を育む“器”になります。そして、この器が機能すれば、やがて多様性は「自然な結果」として組織の中に定着していくはずです。

結語:いま問うべきは、「この制度は、誰にとっても開かれているか?」

DEIは、もはや“やるか/やらないか”の話ではありません。それは、組織や社会が「どのように人を見抜き、どう力を引き出すのか」という制度と文化の問題です。

一度揺れた振り子は、必ず逆に振れます。その揺れは、時に混乱や反発を生みます。でも、その揺れがなければ、私たちは“ちょうどよい場所”を見つけることはできないのです。

多様性は、成果か、倫理か。その問いに対する答えは、ひとつではありません。だからこそ、これからの私たちには、極端に傾かず、問いを持ち続ける持久力と設計力が求められているのだと思います。

BBDF 藤本