「これでいいのだ」の再設計─AI時代を生き抜く“バカ”のすすめ【第3話】

ちゃんとしてない家族は幸せか? ~やさしさの経済と“問い”としてのバカボン~

· Insights,Business

「家族って、ちゃんとしてなきゃいけないの?」

昭和の理想的な家族像といえば、こんな形でした。

  • 父親は働いて稼ぎ、威厳を持つ
  • 母親は家を守り、子どもをしっかり育てる
  • 子どもは良い子で、良い学校に行き、良い会社に入る

いわば、“機能”としての家族です。それぞれが役割を果たすことで、家族という“最小の経済単位”が成り立つ、という考え方。

しかし、バカボン一家はまるでその逆を行っています。

バカボンのパパは働かない。ママが支える。子どもは?

パパは定職に就かず、社会的役割も果たしていません。ママはフルタイムで働き、一家を経済的に支えています。バカボンは、とくに“優等生”でも“問題児”でもなく、何者でもないような存在です。

この一家には、いわゆる「理想の家族像」に当てはまるような明確な役割分担や“機能性”はありません。その代わりにあるのは、誰かが誰かを裁くことのない“安心できる関係性”です。それぞれが、あるがままに、ただ「一緒にいる」のです。

にもかかわらず、いや、だからこそかもしれませんが、この家族には、なぜか今の多くの家庭で失ってしまった“温かさ”があります。

“機能”ではなく、“関係”としての家族

現代社会では、家族さえも効率や成果で測られがちです。

「この家族に経済的生産性はあるか」
「子どもにどんな教育的成果を出させているか」
「夫婦はどれだけ協力し合っているか」

しかし、バカボン一家はそれらの全てを超越しています。

成果はなく、効率も悪い。子育て方針も不明確。それでも、家族は成立しています。

それは、「役に立つ」ではなく、「ただ、いられる」ことを認め合っている関係だからではないでしょうか?

「バカボン」は“未完成の問い”である

バカボンというキャラクターもまた、非常に興味深い存在です。

彼は「将来どうなりたい」とも言わず、特別な才能もなく、どこか茫洋としています。天才でもバカでもない、名前だけを持った“未定義の存在”です。

私は彼のことを、こう考えています。

バカボンとは、「完成された人間」ではなく、“これからどう生きていくか”を問い続ける象徴なのではないか、と。

父は既に「バカになる」という決断をし、母は「現実的に生きる」ことを選びました。その間にいるバカボンは、まだ何者にもならず、“ゆらいでいる”存在です。

それは今の私たちにとても似ています。

ケア・共感・やさしさの経済学へ

バカボン一家の価値は、「生産」ではなく「ケア」にあります。

  • 誰かがつまずいたとき、強く叱るより、まず笑う
  • 働いていないパパを責めることもない
  • 家族の関係性が“目的”ではなく“余白”としてそこにある

この構造は、「ケア経済」や「フェミニズム経済学」で語られる、“支え合い”ではなく“ゆるみ合い”の共同体モデルに近いものです。

経済的に最適化された“機能する家族”とは違います。機能しないけど、壊れていない。それが、バカボン一家という「これでいいのだ」的家族の魅力です。

“ちゃんとしてない”を肯定する勇気

バカボン一家を見ていると、「家族って、それでいいのかも」と思えてきます。

ちゃんとしなくても、笑いがある。うまくいってなくても、一緒にいられる。決めなくても、つながれる。

それは、「こうあるべき」から自由になった家族の形です。もしかすると、これからの社会が必要としているのは、こういう“ちゃんとしてない関係性”なのかもしれません。

【次回(第4回)予告】
成果も肩書もいらない社会は可能か? ~“つながる”だけで価値になる未来~

次回は、いよいよ「社会全体」に目を向けます。

バカボンのパパのように、働かず、役に立たず、でもどこかにいてくれる存在に、社会はどう価値を与えることができるのか?

“役に立つ”からではなく、“つながっている”から価値が生まれる。そんな社会の可能性を、一緒に考えてみましょう。

BBDF 藤本