「家族って、ちゃんとしてなきゃいけないの?」
昭和の理想的な家族像といえば、こんな形でした。
- 父親は働いて稼ぎ、威厳を持つ
- 母親は家を守り、子どもをしっかり育てる
- 子どもは良い子で、良い学校に行き、良い会社に入る
いわば、“機能”としての家族です。それぞれが役割を果たすことで、家族という“最小の経済単位”が成り立つ、という考え方。
しかし、バカボン一家はまるでその逆を行っています。
バカボンのパパは働かない。ママが支える。子どもは?
パパは定職に就かず、社会的役割も果たしていません。ママはフルタイムで働き、一家を経済的に支えています。バカボンは、とくに“優等生”でも“問題児”でもなく、何者でもないような存在です。
この一家には、いわゆる「理想の家族像」に当てはまるような明確な役割分担や“機能性”はありません。その代わりにあるのは、誰かが誰かを裁くことのない“安心できる関係性”です。それぞれが、あるがままに、ただ「一緒にいる」のです。
にもかかわらず、いや、だからこそかもしれませんが、この家族には、なぜか今の多くの家庭で失ってしまった“温かさ”があります。
“機能”ではなく、“関係”としての家族
現代社会では、家族さえも効率や成果で測られがちです。
「この家族に経済的生産性はあるか」
「子どもにどんな教育的成果を出させているか」
「夫婦はどれだけ協力し合っているか」
しかし、バカボン一家はそれらの全てを超越しています。
成果はなく、効率も悪い。子育て方針も不明確。それでも、家族は成立しています。
それは、「役に立つ」ではなく、「ただ、いられる」ことを認め合っている関係だからではないでしょうか?
「バカボン」は“未完成の問い”である
バカボンというキャラクターもまた、非常に興味深い存在です。
彼は「将来どうなりたい」とも言わず、特別な才能もなく、どこか茫洋としています。天才でもバカでもない、名前だけを持った“未定義の存在”です。
私は彼のことを、こう考えています。
バカボンとは、「完成された人間」ではなく、“これからどう生きていくか”を問い続ける象徴なのではないか、と。
父は既に「バカになる」という決断をし、母は「現実的に生きる」ことを選びました。その間にいるバカボンは、まだ何者にもならず、“ゆらいでいる”存在です。
それは今の私たちにとても似ています。
ケア・共感・やさしさの経済学へ
バカボン一家の価値は、「生産」ではなく「ケア」にあります。
- 誰かがつまずいたとき、強く叱るより、まず笑う
- 働いていないパパを責めることもない
- 家族の関係性が“目的”ではなく“余白”としてそこにある
この構造は、「ケア経済」や「フェミニズム経済学」で語られる、“支え合い”ではなく“ゆるみ合い”の共同体モデルに近いものです。
経済的に最適化された“機能する家族”とは違います。機能しないけど、壊れていない。それが、バカボン一家という「これでいいのだ」的家族の魅力です。
“ちゃんとしてない”を肯定する勇気
バカボン一家を見ていると、「家族って、それでいいのかも」と思えてきます。
ちゃんとしなくても、笑いがある。うまくいってなくても、一緒にいられる。決めなくても、つながれる。
それは、「こうあるべき」から自由になった家族の形です。もしかすると、これからの社会が必要としているのは、こういう“ちゃんとしてない関係性”なのかもしれません。
【次回(第4回)予告】
成果も肩書もいらない社会は可能か? ~“つながる”だけで価値になる未来~
次回は、いよいよ「社会全体」に目を向けます。
バカボンのパパのように、働かず、役に立たず、でもどこかにいてくれる存在に、社会はどう価値を与えることができるのか?
“役に立つ”からではなく、“つながっている”から価値が生まれる。そんな社会の可能性を、一緒に考えてみましょう。
BBDF 藤本