「働かざる者、食うべからず」の呪縛
私たちは小さい頃から、繰り返しこう教えられてきました。
「ちゃんと働きなさい」
「社会に迷惑をかけるんじゃない」
「学校で良い成績を取り、会社で偉くなることが一番の評価」
そして「働かない」などということは極めて後ろめたいこととされ、「無職」は社会的ランクの最底辺に置かれてきました。
寅さんは“働いていた”
前回の連載では、映画『男はつらいよ』の主人公・寅さんの自由な生き方を取り上げました。
彼は定職にはつかず、ふらふらと日本中を旅していますが、実は「テキヤ(露天商)」という立派な職業人でもあります。つまり、社会的にはギリギリ労働圏内にいた人でした。
バカボンのパパは「完全無職」
それに対して、バカボンのパパには職業がありません。定収入もなければ、働く意思すらほぼ見られません。朝から散歩して、逆立ちして、時には意味不明なことを口にして、ふらふらと暮らしています(※Wikiによると、原作者の赤塚不二夫さんは「パパは無職(バガボンド=放浪者)でないといけない」としていたそうです。「バカボン」の語源って「Vagabond」だったんですね!ふ、深い…)。
つまり、現代社会的な視点で見れば、彼は“寅さんよりももっとダメな存在”です。
でも…本当に“ダメ”なのでしょうか?
バカボンのパパは、常識的に言えば「無責任で困った人」。しかし、彼のまわりにはいつも笑いと温かさがあります。家族や近所の人との関係性も、どこかゆるやかで、のびのびとしています。
働かないけれど、「いないほうがいい人」ではない。むしろ彼の存在が、あの街の“空気”を作っています。
AIが労働を代替する時代、「無職」はデフォルトになる?
ここで視点を現代に戻してみましょう。
AIの進化によって、事務作業、分析業務、接客、運転、翻訳…私たちがこれまで“食い扶持”にしていた多くの知的な仕事が、機械に代替され始めています。
そして、これは序章にすぎません。
OpenAIのサム・アルトマンも、マイクロソフトのナデラCEOも、「将来的に“意味ある仕事”の多くがAIによって失われる」と語っています。
つまり、「無職」が“ダメな人のラベル”である時代は、もう終わろうとしているのです。
それどころか、「働かなくても生きていける人」こそが、新しい社会の標準になる可能性すらあるのです。
「無職であること」をどう肯定するか?
ただし、働かなくてもいい社会が来たとしても、それを「ただ楽に生きる」こととして受け取るのでは、あまりにも空虚です。
バカボンのパパは、働かないかわりに、道を歩けば誰かに声をかけ、家族と過ごす日常に手を抜かず、しょーもない冗談を言っては、誰かを笑わせています。
つまり、「何かを“している”」のではなく、“そこにいる”こと自体で世界に関わっているのです。
これは、単なる「無職」ではなく、“関係性の中で生きている”という、もうひとつの貢献の形ではないでしょうか。
「働くこと」が全人類の義務ではない時代へ
近代社会は、「労働こそが人間の尊厳である」という考え方に支えられてきました。それは時に力強く、人を前に進ませてきた価値観でもあります。
しかしAIの登場により、それがいよいよ前提から崩れ始めているのです。
「働かないこと」を社会がどう位置づけるか?
その問いが、これからの時代の倫理と制度設計の核心になっていくでしょう。
バカボンのパパは“未来人”だった?
バカボンのパパは、ただのバカではありません。働かないのに、なぜか皆に受け入れられていて、役に立たないのに、町に「欠かせない存在」になっています。
そして、どこかとても幸せそうです。
その姿はまさに、「仕事を持たずとも、関係の中でゆるやかに生きる」未来の人間像ではないでしょうか。
【次回(第3回)予告】
ちゃんとしてない家族は幸せか? ~やさしさの経済と“問い”としてのバカボン~
次回は、バカボン一家そのものを“社会の縮図”として読み解きます。
父は働かず、母が家庭を支え、子どもは…定義できない。そんな「ちゃんとしてない家族」は、果たして本当に“壊れた家庭”なのでしょうか?それとも、新しい経済とつながりのあり方を示しているのでしょうか?
お楽しみに。
BBDF 藤本