沈黙の美徳か、責任の放棄か
日本企業には、「政治的な主張をしてはならない」という“空気”があります。 それは、顧客の思想的多様性に配慮した“賢明な判断”とされているように思えます。
しかし、本当にそうでしょうか? その沈黙は、企業の理念の欠如であり、社会への責任の放棄と言えるのではないでしょうか。
私はこの“空気”に大きな違和感を感じています。大学で「政治経済学」を専攻した(「政治・経済学」ではないところがポイントです)からでしょうか、私にとって「政治と経済は表裏一体である」との認識が強くあるのです。
では、なぜ企業は政治的主張を避けるのでしょうか?その理由は大きく次の3つだと考えます。
- 顧客離れのリスク
- 社員間の対立回避
- 炎上や株主批判への懸念
これらは一見、合理的な理由に見えます。 しかし、裏を返せば「自社のプロダクトや思想に自信がない」ことの現れでもあるのではないでしょうか。「何を言っても売れる」という確信があれば、企業はもっと自由に語れるはずです。
沈黙がもたらす副作用
企業が政治的に沈黙することで、以下のような構造が生まれていると、私は考えます。
- 市民の政治的関心が育たない
- 政治家が企業の沈黙を“黙認”と解釈する
- 社会的責任を伴わない経済活動が加速する
結果として、政治は“専門家だけのもの”になり、民意の空洞化が進むことになります。 そしてその空白を、既得権益と腐敗が埋めていくのです。
米国との比較
我が国の同盟国である米国では、企業が政治的・社会的課題に対して明確な立場を表明することが珍しくありません。 それはリスクでもあるでしょう。しかし、同時に理念の表明でもあるのです。 「売る」だけでなく、「信じる」ことを語る企業のみが、社会の信頼を得ることができています。
「沈黙を破る言葉」とは
政治的主張とは、必ずしも政党支持や政策賛否を意味しません。 それは「価値の表明」であり、「選択の宣言」でもあるのです。
「私たちは、誰もが安心して暮らせる社会を望みます。」
「多様な意見があることを前提に、私たちはこの立場を選びます。」
こうした言葉が企業から発信されるようになれば、政治と経済の距離は縮まり、腐敗の余地も狭まるのではないでしょうか。
企業は社会の一部である
企業は、ただの経済主体ではありません。 社会の空気をつくり、価値観を育てる存在です。 その企業が沈黙することで、政治は腐るのです。 だからこそ、企業は語るべきです。
理念を、信念を、未来への意思を。
BBDF 藤本