生成AIによって作られた画像や文章への嫌悪感が、一部で高まっている。先日も、ある知人がこのようなことを言っていた。
「サムネ画像にAI臭を感じ取った時点で、もう中身を読む気がしない」
相当な拒絶反応だ。ただ、言いたいことはよくわかる。例えばnoteなどの投稿を眺めていると、確かに似たようなサムネ画像が目につく。過度にドラマチックな照明、絶妙なグラデーション、精緻に描き込まれた背景、洗練された構図……中身の薄さと不釣り合いな完成度の画像が、そこら中に溢れている。
もちろん、AIを活用して優れた表現を生み出している人も大勢いるし、人間が手作業で作ったからといって優れた作品になるわけでもない。それでも、あまりに似たような画像や文章が大量に流通する光景には、どこか異様なものを感じざるを得ない。
これを、単なる生成AIへの「飽き」で説明することはできない。私は、この嫌悪感の正体を考えることこそが、今後のAIと人間の共進化を探るうえで、重要な論点になるのではないかと考えている。
私たちはこのタイミングで「一歩先」へ進まなければならない。
|なぜAI生成画像は、どれも似てしまうのか
生成AIの画像によく見られる、上記のような「高度な」表現。初めの頃は大きな驚きを覚えたものだが、繰り返し目にするうちに、今では「またこの光り方か」「またこの構図か」としか感じられなくなっている。誰もが簡単に美しい画像を作れるようになった結果、その美しさ自体が、もはや差別化要因ではなくなりつつある。
これは、単なる印象論ではない。
2026年4月、学術誌『The Journal of Aesthetics and Art Criticism』に発表された「AI and Aesthetic Bias」では、画像生成AIが「特定の美的特徴」(華やかさや彩度、対称性など)を優先しやすい傾向が論じられている。つまり、生成AIは社会で広く共有されている「美しさの型」に収束しやすいということだ。
また、2024年に『Science Advances』に発表された研究では、生成AIを利用することで個々の作品の評価が高まる一方、作品同士の類似性も高まるという逆説が確認されている。こちらは文章を対象とした研究だが、生成AIによる品質向上が、必ずしも表現の多様化につながらないことを示唆している。
なぜこのようなことが起こるのか。
生成AIには、学習データの傾向やモデルの調整など、「特定の表現」に偏りやすくなる要因がある。加えて、私たちユーザー自身も「もっとカッコよく」「プロっぽく」といった抽象的で似た指示を与えがちだ。
そもそも、こうした画一化は生成AIによって突然生まれたものではない。広告や企業のプレゼンテーションなど、人間が作ったものにも、以前から似たような表現は溢れていた。生成AIは、もともと社会に存在していた「広く受け入れられやすい表現」を、圧倒的な速度と低コストで再生産できるようにした存在なのだ。
その結果、私たちは膨大な数の「よくできた、どこかで見たもの」に囲まれるようになってしまった。
|「既視感」が「嫌悪感」に変わるとき
とはいえ、既視感そのものは、必ずしも不快なものではない。私たちは馴染みのあるメロディーや、よく知っている物語の構造に安心感を覚えることも多い。
では、なぜAI生成物の既視感は、一部の人々にとって嫌悪感にまで変わってしまうのか。
私は、次のような心理的変化が起きているのではないかと考えている。

第1段階:既視感「ああ、またこの感じか」
第2段階:予測可能性「この先、何が出てくるか想像できる」
第3段階:意味の希薄化「これを作った人は、いったい何を伝えたいのだろう」
第4段階:嫌悪・拒絶「もう、こういうものを見たくない
特に重要なのは、第2段階から第3段階への移行だ。単に「似たものを見た」だけなら、既視感は退屈さで終わるだろう。ところが、そこに作り手固有の関心や判断が感じられないケースに繰り返し遭遇するから、退屈さが次第に拒絶反応へと変化していくのだ。
言い換えれば、嫌悪の対象は類似性そのものというより、類似性を通じて感じ取られる「意味の空洞化」だ。
この問題を考えるうえで、興味深い言葉がある。「AI Slop(AIスロップ)」というものだ。
英語のslopには、もともと汚泥や質の低いものといった意味があるが、現在では、大量生産される低品質なAI生成コンテンツを指す言葉として使われている。
米国の辞書出版社Merriam-Websterは、2025年の「今年の言葉」に、このslopを選んでいる。さらに2026年8月には、「Doing the numbers: The operational aesthetics of AI slop」という学術論文も発表されている。この論文が提示しているのは、AI Slopが必ずしも何らかの意味を表現するために作られているわけではなく、その主な目的は、閲覧数やエンゲージメントといった数値を最大化することにあるという。
これも、非常に示唆的だ。
何かを伝えたいから文章を書くのではなく、アクセス数を増やしたいから文章を作る。何かを表現したいから画像を作るのではなく、クリックを獲得したいから画像を作る……受け手は、そこに自分への本質的なメッセージではなく、自分の注意を獲得しようとする「いやらしい仕組み」を感じ取っているのだ。
もちろん、アクセス数を意識すること自体が悪いわけではない。問題は、何を伝えるかよりも、いかに反応を獲得するかが優先されてしまっている現状だ。
そして生成AIは、そのためのコンテンツを、いくらでも安価に作り出せる……そう考えれば、単なる退屈さが嫌悪へと変化する理由も、少し理解できる気がする。
もちろん、AI生成物への嫌悪感を画一性だけで説明することはできない。2026年に発表された、計27,491人を対象とした心理学研究では、創作文章について、AIが書いた、あるいはAIが支援したと認識されるだけで評価が下がる傾向が確認されている。
つまり、嫌悪感には、アウトプットそのものに由来するものと、「AIが作った」という認識そのものに由来するものがあるのだ。
冒頭で紹介した知人の反応には、その両方が含まれているのかもしれない。
|AI生成画像は、なぜ「過剰」なのか
最初の問いに戻ろう。私は、AI生成画像に感じる嫌悪感の一つの源泉は、その「過剰性」にあるのではないかと考えている。ドラマチックな光。整いすぎた配色。精緻に描き込まれた背景。絶妙なグラデーション。巧みな遠近感……どのサムネ画像も、立派すぎる。それらを見るたびに、こう思ってしまうようになった。
「本当にそれ、必要ですか?」
なぜ、その光が必要なのか。
なぜ、そこまで背景を描き込む必要があるのか。
なぜ、その色を使い、その構図を選んだのか。
もちろん、作り手に明確な意図がある場合もあるだろうが、一般的なプロンプトから生成された画像からは、個々の要素を選択した理由がまったく見えてこない。
「完成度が高すぎる」というより、「視覚的な充足度が高すぎる」と言った方が正確かもしれない。つまり、綺麗に仕上がっていることと、美意識に基づいて完成していることは、必ずしも同じではないのだ。
アウトプットの観点から見た場合、これまでの生成AIの進化は「足し算」の方向だったのではないだろうか。より詳細に、より写実的に、より美しく、より多くの情報を盛り込もうというスタンスだ。
それは、技術としては素晴らしい進歩だろうが、誰もが同じように美しく、同じように洗練された画像を生み出すようになったとき、私たちは本当に表現の豊かさを手にしたといえるのだろうか。ただ、誰もが同じ方向に走り続けているだけではないか。
そこで私は、今後ある観点が重要になると考えている。「引き算」だ。
|サン=テグジュペリ「引き算」の美学
フランスの作家、サン=テグジュペリの『人間の大地』に、「ミニマルの権化」ことリック・ルービンも引用した有名な一節がある。
「完璧とは、これ以上何も足すものがない状態ではなく、これ以上何も引くものがない状態のことである」
この言葉を、今の生成AIによる画像表現に重ねてみると、「完成度」には、二つの異なる考え方があることがわかる。
一つは、要素を充実させ、見栄えを良くしていく「充足の完成度」。
もう一つは、不要なものを削ぎ落とし、本当に必要なものだけを残していく「選択の完成度」。

生成AIは、私たちが何も考えなくても、「充足の完成度」が極めて高い画像を生み出してくれる。しかし、何を取り去るべきなのか、どの状態を完成とするのかを決めるのは、人間しかいない。重要なのは、単に引くことではなく、「何を引き、何を残すかを、自分自身で決めること」だ。
そこで、私自身の最近の試みを紹介したい。実は、あまりにも似たようなAI生成画像にうんざりしてきたこともあり、論考のサムネの方向性を変え始めている。以前は私も、できるだけ美しく、インパクトのあるサムネを生成AIを使って作ろうとしていた。しかし、最近はそうした「AIが作りがちな美しさ」から離れる必要を感じているのだ。
前回X記事で書いた「AI時代に『生き残る人』と『淘汰される人』を分ける致命的な差」という論考がある。そのタイトルおよび概要をAIに伝え、サムネ画像生成を依頼したところ、10秒で出来上がったのがこれだ。

……もう、おなかいっぱい感しかない。見た目は華やかで立派で、洗練されているが、論考にとって不必要な要素や装飾が多すぎるのだ。
そこで自分で作り直し、採用したのが、こちらだ。イラストには「いらすとや」の素材を使い、フォントも少しレトロなPOP体に寄せている。

どうだろう、随分と野暮ったいのではないだろうか(笑)。ただ、今の私にはこの「ダサさ」が、むしろ心地よいのだ。
よく考えてみれば、論考のサムネイルに、芸術作品のような、奥行きのある画像を求める必要などまったくないはずだ。記事の内容が伝わり、読者の関心を引く入口として機能すれば、それで十分だ。
そして、このダサい画像を眺めているうちに、もう一つ面白いことに気づいた。
「いらすとや」自体は、日本人にとって相当な「既視感」の塊だ。日本中の広告や資料、ウェブサイトなどで長年にわたり無数に目にしてきたものだ。それなのに、最近のAI生成サムネイルで感じるような「嫌悪感」がないのだ(少なくとも私には)。
これは、なぜだろう。
おそらく「既視感」の“性質”が違うからだ。典型的なAI生成画像への既視感は、「またこの光か」「またこの構図か」という、無個性な最適化の反復だが、「いらすとや」の素材には、「あ、この文脈でこれを使うのね」「あえて、このイラストを選ぶのね」という、作り手の「判断」を感じ取る余地があるのだ。
もちろん、「いらすとや」を使えば必ず人間らしい表現になるわけではないし、生成AIでも、こうしたレトロなデザインは作れるだろう。ただ、少なくとも今の私には、いらすとやの素材を選び、パワポやイラレで組み合わせる方が、自分なりの美意識を反映できるように思える。何を選び、何を残し、何を装飾しないか。そこに自分自身の判断があるからだ。素材自体はありふれていても、その選択に「理由」がある……ここが重要なのだ。
生成AIのサムネイルの多くが「ダサくないこと」に全力を注いでいる(ように見える)。しかし、情報発信において本当に必要なのは、必ずしも洗練ではないはずだ。私たちは、高度な画像生成AIを手にしたからといって、常に高度な画像を作らなければならないわけではない。
サン=テグジュペリの言葉を借りるなら、完成とは、何かを足し続けた先にあるのではなく、何が不要かを見極めた先にこそあるのだ。
|「自分にとっての完璧」を追求する時代へ
この問題は、単なる画像生成の話に留まらず、今後のAIとの関係の在り方そのものに通じると私は考えている。
生成AIの普及によって、表現技術は急速に民主化された。しかし、誰もが高品質なアウトプットを生み出せるようになった今、問われるのは、その品質を何によって評価するのか、ということだ。
これからのAI時代、本当に希少になるのは、「独自の美意識を持つ人間」だ。もちろん、生成AI自身も今後ますます多様な表現を可能にしていき、その結果、人間自身の美意識が刺激され、変化していくこともあるだろう。私は、これこそがAI×人間の共進化の姿だと思う。
今後重要になるのは、AIが提示したものを、ただ「よくできているから」という理由だけでは「受け入れないこと」に他ならない。
「綺麗だけど、違う」
「完成されているけれど、自分には必要ない」
「もっと単純でいい」
「むしろ、この不格好さを残したい」
こうした判断を、自分自身の基準で下すのだ。
AIが出すものが、本当に自分にとっての「完璧」なのか?「完璧」なんて、人によって異なってしかるべきものなのに、なぜみんな同じ方向に走ろうとしているのだろうか。同じ方向を目指す必要などないはずだ。
むしろ、自分にとって不要な能力は、あえて使わないという選択があってもよい。「AIを使って何ができるか」を競う段階から、「AIを使って何をしないか」を自分で決める段階へきているのではないだろうか。
AIは、私たちに無限に「足す」能力を与えてくれた。しかし、何を取り去り、何を残すかは、私たち自身が決めなければならない。
すべての人が同じ完成形を目指す必要などない。一人ひとりが、自分にとっての「完璧」を追求すればよいだけだ。
藤本英樹(BBDF)
