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AI時代に問われる人間の「審美眼」と「無知の知」

· Insights

「AIを使うようになって、頭がよくなった気がする」

最近、そんな趣旨の話を耳にする機会が増えた。確かに、その感覚は理解できる。たとえば、言語化能力がそれほど高くない人にとって、生成AIは実にありがたいツールだろう。自分が漠然と抱いていた違和感や、頭の中で整理できずにいた考えを、明確な論理構成とともに文章化してくれる。しかも、驚くほど流暢に。

これまで他人にうまく説明できなかったことが、AIを使うだけで説得力のある文章になる。複雑な問題にも、それらしい答えを提示できる。専門知識がなくても、専門家のような言葉を使えるようになる……それを見て「自分の頭がよくなった」と感じるのも、無理はない。

しかし、ここで一つ考えてみたい。本当に頭がよくなったのだろうか? それとも、頭がよくなったように見えるだけなのだろうか?

これは単なる言葉遊びではない。生成AIが急速に普及する現在、そして将来、人間の脳とAIが直接接続されるかもしれない時代を考えるうえで、極めて重要な問いになる問いだ。

ところで先日、楽曲生成AI「SUNO」を使って、ある曲を制作した。入力したプロンプトは、少々マニアックなものだった。

Animals As Leadersのジェント(Djent)的なリズム構造をベースに、Voivodの持つディスコード(不協和音)を多用したスラッシュの要素を取り入れ、さらにQueenのオペラティックで重層的なコーラスを加える、というものだ。歌詞には、最近出版した私の新刊から着想を得て書いたものを与えた。

何度か生成と修正を繰り返したところ、かなり自分のイメージに近い楽曲が完成した。(YouTubeリンク:This World Is ODD(Full ver.))

ここで言いたいのは、「AIを使って、何を具体化したいのか」という問題だ。

私は約2年前、Googleのプロンプティング講座を受講した(当時はまだ英語版しかなかったと記憶している)。そこで学んだのが、「TCREI」というプロンプティングの基本的な考え方だ。覚え方は「Thoughtfully Create Really Excellent Inputs」。それぞれの頭文字は、次の五つの要素を示している。

T:Task ―― 何をさせたいのか。役割や出力形式も含め具体的に指示する。
C:Context ―― 背景や目的、前提条件を伝える。
R:References ―― 参考情報や具体例を与える。
E:Evaluate ―― 出力結果を評価し、改善点を見つける。
I:Iterate ―― 評価を踏まえ、反復して改善する。

私はこの考え方を、以来、意識的に実践してきた。生成AIに何かを依頼する際、少なくともT・C・Rの三つを明確にするだけでも、出力の精度は大きく変わる。「いい感じにして」「もっとカッコよく」といった曖昧な指示だけでは、AIがこちらの意図を正確に理解できるはずがない。
 

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そして、私が特に重要だと考えているのが、後半のEとIだ。EvaluateとIterate。つまり、評価と改善。

生成AIは、驚くほど美しい画像や、論理的に整った文章を瞬時に生成する。しかし、その見た目の美しさや流暢さに心を奪われ、内容を正しく評価できていない人も少なくない。そもそも、評価するための基準や能力を持ち合わせていない場合もある。

先ほどのSUNOの例で言えば、生成された楽曲に対して「もう少しヘヴィにして」と指示するだけでも、AIはそれなりに応えてくれる。しかし、私が求めていたのは、単にヘヴィな楽曲ではない。Animals As Leadersの複雑なリズム、Voivod特有のディスコード感、Queenの壮大なコーラス構成。これらがどの程度実現されているのかを聴き分け、足りない部分を具体的に指摘する必要がある。

そのためには、それぞれの音楽を知り、その特徴を理解していなければならない。つまり、AIへの指示が巧みかどうか以前に、音楽に対する知識や経験、評価能力が問われているのだ。

これは文章でも、画像でも、動画でも、企業経営の戦略立案でも変わらない。AIが高度になればなるほど、生成されたものは一見すると完成品に見えるようになる。

だからこそ、その完成度を正しく見極める能力が必要になる。その能力を、私は「審美眼」と呼んでいる。
 

|AI時代に必要な「審美眼」とは

審美眼というと、芸術作品の美しさを見極める能力を想像する人が多いだろう。しかし、私がここで言う審美眼は、それよりも広い概念だ。

「目の前にあるものを正しく観察し、その構造や関係性を理解し、本質的な価値や欠陥を見抜く能力」。

その基礎を養ううえで、私が以前から注目しているのがアート、とりわけデッサンだ。

デッサンとは、何となく感覚的に絵を描くことだと思っていないだろうか。しかし少なくとも、その基礎にあるのは極めて論理的、ある意味では数学的な観察に他ならない。

目の前に三つの物体が置かれているとする。物体Aは物体Bのどの方向に、どれほど離れて存在しているのか。物体CはA・Bに対してどのような角度、距離、比率で配置されているのか。光はどちらから当たり、影はどの方向に伸びているのか。こうした関係性を正確に捉え、紙の上に再現する。

デッサンには手先の技術や視覚認知、表現上の判断など、さまざまな要素が関わるが、その出発点にあるのは「正しく見る」という行為だ。(参考リンク:「『観察力』と『再現力』—絵を描くということ—」BBDF Insights)

人間は、目の前にあるものを、そのまま見ているつもりでいる。ところが実際には、過去の経験や先入観、思い込みによって、見えているものを無意識に補正してしまっている。「錯覚」と呼ばれるものも、その一つだろう。

デッサンとは、そうした思い込みを一つずつ取り払い、現実を観察し直す営みでもある。私は、ここにAI時代の人間に求められる能力との共通点を感じている。生成AIが出力したものを評価する際にも、まったく同じことが起こるからだ。

整った文章を見ると、論理的に正しいように感じてしまう。美しい画像を見ると、完成度が高いと思い込んでしまう。もっともらしい数字が並んでいれば、信頼できる情報だと錯覚してしまう……だが、本当にそうなのか。

論理に飛躍はないか。前提条件は正しいか。数字の意味を取り違えていないか。何か重要なものが欠けていないか。これらを見抜くには、表面的な完成度に惑わされず、対象を正しく観察する能力が不可欠だ。

そして、アートだけでなく、哲学も重要な役割を果たす。哲学とは、「なぜそう考えるのか」「その前提は本当に正しいのか」と問い続ける営みだからだ。

日本の企業社会では、これまで実務に直結する知識や技術の習得が優先され、アートや哲学は、ともすれば余暇や教養の領域に追いやられてきた。しかし、AIが実務的な知識や技術を次々と補完する時代には、こうした分野こそ重要性を増す。実際、米国のスタートアップでは哲学専攻や美術学専攻の学生が取り合いになっているとも言われている。たとえば、Art & Logic社が提供しているような、アートを通じて観察力や思考力を養う研修にも、改めて注目したい。(参考リンク:たった2日間で絵が描けるようになる|アート・アンド・ロジック)

デッサンが上達すれば、自動的にAIの評価能力も高まるというわけではない。それでも、自分の思い込みを疑い、目の前のものを正しく観察する訓練には、大きな意味がある。

「AIを使いこなすために、プロンプトのテクニックばかりを学ぶ」よりも、「デッサンを学び、哲学に触れ、自分自身の観察力や判断力を鍛える」……一見すると遠回りに見えるが、実はそれが最短の近道なのではないだろうか。
 

|人間の知能を100万倍にする構想

ところで、そもそもAIは「誰にとって」凄いのだろうか。

先日、「AIとは何か?」という議論をする機会があった。ある人は「究極の効率化ツール」だと言い、別の人は「創造性を拡張してくれるツール」だと答えた。

私は、どちらも正しいと思う。ある業務を長年担当してきた人にとって、それをAIが代行してくれることは効率化だ。ところが、その業務の存在すら知らなかった人(例えば新入社員)にとっては、AIは未知の領域に踏み出すためのツールになる。

同じAIを使っていても、それを受け止める人間の能力や経験によって、その意味は大きく変わるのだ。そしてこれは、AGI(汎用人工知能)やASI(人工超知能)についても考えさせられる問題だ。

「AIが人間の知能に並ぶ」「人間の知能を超える」というとき、比較対象となる人間とは誰なのだろうか。平均的な人間なのか。それとも、各分野における一流の専門家なのか。

AIは既に多くの個別領域で平均的な人間を上回っている。しかし、あらゆる分野で最高水準の専門家を安定的に凌駕する段階に達したわけではない。その一方で、進化の速度は驚異的だ。METRの評価では、Claude Opus 4.6の50%タスク時間指標は約12時間に達している。これは、人間の専門家なら12時間程度かかるソフトウェア関連の課題について、AIが50%の確率で成功できるという意味だ。数年前には数分程度だった指標が、ここまで伸びている。

こうした進化が続けば、人間とAIの関係そのものが変わっていく。そして、その先には、さらに大きな変化が構想されている。人間の脳とAIを直接接続するという未来だ。

この未来像を長年にわたって語ってきた代表的人物が、Googleの研究者であり未来学者でもあるレイ・カーツワイルだ。彼は2005年の著書『シンギュラリティは近い』で、2045年頃に技術的特異点(シンギュラリティ)が訪れると予測し、2024年の続編『シンギュラリティはより近く』でも、基本的な見通しを維持している。彼の予測では、2029年頃にAIが人間レベルの知能に達し、2030年代には脳とクラウド上のAIとの接続が進む。そして2045年頃には、人間の知能を100万倍に拡張できるようになるという。その実現手段として想定されているのが、脳内に入り込み、神経細胞と相互作用するナノボットなどの技術だ。

現在の私たちは、何かわからないことがあれば、スマートフォンを手に取り、検索したりAIに質問したりするが、脳とAIが直結すれば、その操作すら必要なくなる。何かを知りたいと思った瞬間に必要な知識へアクセスし、複雑な計算や推論も、「自分自身の思考の延長」として実行する。

こうした構想を実際の研究開発へと進めているのが、イーロン・マスクだ。彼は2016年頃から、人間が高度なAIと共存するためには、脳とコンピューターを直接接続する必要があると主張してきた。彼が共同創業したNeuralinkは、2024年に初めて人間へのデバイス埋め込みを実施し、今年の1月には、臨床試験への参加者が世界で21人に達したと発表している。現在の主な目的は、身体に重い障害がある人々のコミュニケーションや機器操作を支援することだが、目指すのは医療的な機能回復だけではなく、人間がAIと融合し、その進化に取り残されない未来だ。

サム・アルトマンも同様の方向を見据えている。2017年の論考「The Merge(融合)」で、人間とAIの融合について論じた。スマートフォンや検索エンジンなどを通じて、人間の思考や行動は既にアルゴリズムと深く結びついている。脳とAIの直接接続は、その延長線上にあると言える。アルトマンは脳とコンピューターを接続する技術を研究するMerge Labsの共同創業者にも名を連ねている。

脳とAIの接続が、単なるSFの設定ではなくなっている。
 

|「知能」と「知性」は同じではない

冒頭の問いに戻ろう。仮に脳とAIの接続が実現し、人間の知的能力が飛躍的に拡張されたとする。そのとき、果たしてこの世から「バカ」はいなくなるのだろうか。

まず、こうした技術が人間にもたらす恩恵が、計り知れないことは確かだ。たとえば、一般に「境界知能」と呼ばれる領域がある。これは、従来のIQ尺度でおおむね70~85程度に相当する知的機能の状態を指し、該当する人は人口の約14%にも相当する。

この領域にある人々の中には、複雑な情報の理解や処理、社会生活上の判断などで困難を感じる人がいる。もしAIが一人ひとりの特性に応じて情報の理解や意思決定を支援できるなら、そうした困難の一部を軽減できるだろう。社会的な生きづらさには、本人の認知能力だけでなく、周囲の環境や制度、他者の理解不足も大きく関わっている。AIによる支援が人々の選択肢や社会参加の可能性を広げることには、大きな意義がある。

さらに、こうした技術は、人と人とのコミュニケーションそのものを変えるかもしれない。私たちはそれぞれ、異なる経験や知識、価値観に基づく認知の枠組み、いわゆる「スキーマ」を持っている。同じ言葉を聞いても、頭の中で思い浮かべるものは人によって違う。同じ出来事を経験しても、そこから導き出す意味は異なる。これが、コミュニケーションにおける誤解や摩擦を生む。

仮にAIが、こうした認知の違いを適切に補い、相手の理解に合わせて情報を変換してくれるようになったら、互いに理解できなかったことが理解できるようになる。適切に伝えられなかったことが伝わるようになる。これは単なる知的能力の拡張を超えて、人間社会のあり方を変える可能性すら秘めている。

しかし、ここで見落としてはならないことがある。「知識が増えることと、知性が高まることは、同じではない」ということだ。

膨大な知識を持っている人が、必ずしも適切な判断を下せるとは限らない。論理的な説明が得意な人が、他者に共感できるとは限らない。高度な問題解決能力を持っている人が、その能力を社会にとって望ましい目的に使うとも限らない。

AIは既に、複雑な問題を分析し、論理的な矛盾を指摘し、複数の選択肢を比較し、人間の判断を支援している。将来、AI自身の判断能力が、ほとんどの領域で人間を上回る可能性が高い。しかし、判断能力が高まることと、その判断を何のために使うのかという問題は別なのだ。

仮にカーツワイルの予測どおり、知能が100万倍に拡張された人間が誕生したとしよう。その人間は、かつてないほど高度な科学的発見を成し遂げるかもしれない。難病を克服し、環境問題を解決し、人類の生活を飛躍的に豊かにするかもしれない。

一方で、他人を欺く方法を100万倍巧妙に考え出すかもしれない。自らの利益を最大化するために、他者を操作する仕組みを構築するかもしれない。あるいは、自分の過ちを正当化するための完璧な論理を組み立てるようになるかもしれない。

それを、果たして「賢い人間」と呼べるだろうか。情報処理能力や推論能力という意味では、間違いなく賢い。しかし、それだけで人間として優れているとは言えない。

ここに、「知能」と「知性」を区別して考える意味が生まれる。

私がここで言う「知能」とは、情報を理解し、記憶し、推論し、問題を解決する能力のことだ。一方、「知性」とは、それらの能力を働かせる際に、自らの前提を疑い、他者の立場を想像し、何が望ましいのかを考え続ける姿勢まで含む、より広い概念だ(これは厳密な学術用語の区別というより、AI時代の人間について考えるための整理です)。
 

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AIがどれほど知能を拡張しても、知性が自動的に成熟するわけではない。むしろ、知能の拡張によって人間の未熟さが増幅される危険すらあるのだ。
 

| AI時代の「無知の知」

もう一つ、重要な問題がある。それは、人間が自分自身の「できなさ」を認識する能力についてだ。

生成AIの普及によって、私たちはこれまでできなかった多くのことを実現できるようになった。文章が書けない人でも、整った文章を作れる。絵が描けない人でも、美しい画像を生成できる。専門的なプログラミングの知識がなくても、ソフトウェアを作れる。こうした変化は、基本的には歓迎すべきことだ。

しかし、その一方で、気になることがある。AIによって「できないこと」が減っていくほど、人間は自分の「できなさ」を認識する能力を失っていくのではないか、ということだ。

ここで思い起こすのが、哲学者・出口康夫氏(京都大学)が提唱する「できなさの哲学」だ。出口氏は、人間のかけがえのなさは「できること」ではなく、むしろ「できなさ」にあると説く。人間はそもそも一人では何もできず、他者やさまざまな存在に支えられて初めて行為できる。だからこそ、個人の能力を中心に据えた「I」から、他者との関係性を基礎とする「WE」への転換が必要だという。

本稿で私が問題にしている個人の能力不足と、出口氏のいう根源的な「できなさ」は同一ではないが、自分自身の限界を認識することから、新たな可能性が開かれるという点で、両者は深くつながっているように思う。

自分では理解できなかった問題を、AIがわかりやすく説明してくれる。その説明を読んで理解できた気になる。さらに、AIが作った文章を使って他者に説明すれば、周囲からは自分自身が深く理解しているように見える。

この過程を繰り返しているうちに、AIが理解していることと、自分が理解していることとの境界が、次第に曖昧になっていく。

もちろん、AIとの対話を通じて本当に理解が深まることもあるから、問題は、その違いを自分自身で見極められるかどうかだ。

「わかった」と「わかったつもり」は違う。「できた」と「AIにやってもらった」も違う。
ましてや、「正しい答えを得た」ことと、「なぜそれが正しいのかを理解した」ことは、まったくの別物だ。

ここで思い起こしたいのが、ソクラテスの「無知の知」だ。自分が何を知らないのかを認識すること。自分が正しいと思っていることにも、誤りがあるかもしれないと考えること。これは、単に知識が不足している状態ではない。自らの認識の限界を理解するという、高度な知的態度だ。

ところが、AIがあらゆる問いに流暢な答えを返すようになると、私たちは自分の無知と向き合う機会そのものを失うかもしれない。知らないことを知るためにAIを使っていたはずが、いつの間にか、自分は知っていると思い込むためにAIを使うようになる。実に皮肉な話だ。

ここで、前述の「審美眼」と、この「無知の知」が、実は同じ能力の異なる側面であることに気づく。審美眼とは、対象に何が欠けているかを見抜く能力であり、無知の知とは、自分自身に何が欠けているかを認識する能力だ。前者は外部に向かう観察力であり、後者は自己に向かう観察力とも言える。そして、そのどちらにも、自分の思い込みを疑い、物事をありのままに見ようとする姿勢が求められる。
 

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私はこれまで、技術の進化と、それを受け入れる社会制度や人間の価値観の変化との間に生じる速度差を、「速度逆転(Rate Crossover)」という視点から考えてきた。(参考リンク:「速度逆転(Rate Crossover)というフォーサイトの視点」BBDF Insights)

AIの能力が指数関数的に高まる一方で、人間の認識や価値観、組織文化は、必ずしも同じ速度で変化しない。脳とAIの直接接続が実現すれば、この速度差はさらに拡大するだろう。

私たちは、自らの知的能力を飛躍的に高めながら、その能力を何のために使うべきなのかという問いには、いつまでも答えられないままかもしれない。いや、もっと厄介なのは、知能が向上することで、自分の価値観や判断の誤りを、今まで以上に巧妙に正当化できるようになることだ。知能の向上が、そのまま人間の成熟につながるわけではない。

冒頭の問いにまた戻ろう。「AIを使うようになって、頭がよくなった」……それが、知識不足の解消や、これまでできなかったことを実現できるようになったという意味なら、大いに結構なことだ。しかし、そこで思考を止めてはならない。

AIのおかげで何ができるようになったのか。
そのうち、自分自身が理解し、判断できているのはどこまでなのか。
そして、その能力を何のために使おうとしているのか。

これらを問い続ける必要がある。人間の知能が100万倍になったとき、人間の価値観や倫理観、他者への共感、そして自らの無知を認識する能力までもが100万倍になる保証はない。そうした能力を意識して磨き続けなければ、拡張された知能によって、人間の未熟さがこれまで以上に大きな影響力を持つことになる。

AIは、人間の知的能力の限界を取り払うかもしれない。しかし、人間が自分自身の限界を認識する能力まで、代わりに与えてくれるとは限らない。

だからこそ、知能100万倍の時代に問われるのは、知能の大きさではない。その知能を使う、人間の「知性」なのだ。
 

藤本英樹(BBDF)

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