はじめに:この奇妙な旅を振り返る
ここまで、「AIと哲学と寅さん」と題した奇妙な旅にお付き合いくださり、ありがとうございました。
ジョン・メイナード・ケインズが100年前に描いた「週15時間労働」の未来予測。それがなぜ外れたのかを手がかりに、私たちは次のような問いを追いかけてきました。
- なぜ人間の欲望は止まらなかったのか
- なぜ技術革新は人々に“自由時間”をもたらさなかったのか
- なぜ企業は生産性向上の果実を“生活の質”ではなく“株主利益”に回したのか
- なぜ「労働=美徳」と信じ込んできたのか
そして、そうした問いに対して、ドゥルーズ&ガタリの「リゾーム思考」、アーレントの「行為の哲学」、バタイユの「浪費と無駄」、さらには寅さんの生き方が、それぞれ違った角度から光を当ててくれました。
「自由」とは、何でもできることではない
多くの人が「自由」と聞いて思い浮かべるのは、「選べること」「持てること」「移動できること」などの“可能性の拡大”です。しかし、ここで私たちは立ち止まって、もう一度こう問い直してみるべきです。
「本当に“何でもできる”状態は、自由なのか?」
情報にアクセスできる。場所に縛られない。仕事を選べる。でもその裏側で、「何をするべきか」「どこに行くべきか」「どんな人間になるべきか」を無限に選ばされ続ける状態が、現代人を疲弊させている。そうは思わないでしょうか?
リゾーム的自由とは、「どこにも属さず、すべてとつながる」こと
この連載を通じて導き出された自由のかたちは、こうです。
- どこかに“定着”するのではなく、必要なときに、必要な場所と接続する
- 所属や肩書きに縛られず、それでも誰かと関係を築ける
- 自己実現のために働くのではなく、「今・ここ」で誰かの役に立つことが自然と“価値”になる
- そして、そうした貢献が、時間差であってもちゃんと還元される仕組みがある
それは、ツリー型社会では得られなかった、「生きている実感」や「世界とのつながり」を回復する自由です。
寅さんが見せてくれた、もう一つの近未来
シリーズを通じて私たちが何度も立ち返ったのは、映画『男はつらいよ』の主人公・車寅次郎です。
彼は定職に就かず、資格もなく、毎回フラれて、社会的には“成功者”とは言えません。しかし彼は、毎回誰かに出会い、助け、傷つき、また笑顔を残して旅立っていきます。
そんな寅さんの生き方は、AI時代においてこそ、まったく別の意味を持ち始めています。
- 中央に属さず
- 資本に縛られず
- 社会的成功を追い求めず
- それでもつながりの中で価値を生み出す
もしかすると寅さんは、ポスト資本主義社会の“自由人プロトタイプ”だったのかもしれません。
リゾーム的自由人のすすめ
寅さんのように生きるとは、孤立することではありません。それは、どこにも属さず、しかしすべてとつながりながら、自分なりの価値を循環させていく生き方です。
テクノロジーがそれを可能にし、哲学がそれを支え、文化がそれを肯定する。
そんな時代が、ようやく見え始めています。
所属しないことは、逃げではない。孤立することは、敗北ではない。
つながり方を選べることこそが、AI時代の新しい自由なのです。
おわりに
「AIと哲学と寅さん」という奇妙なタイトルに惹かれて、あるいは首をかしげながらここまで読んでくださった皆さま、ありがとうございました。
ドゥルーズ&ガタリも、ケインズも、アーレントもバタイユも、そして寅さんも、彼らがそれぞれの立場から語っていたのは、きっと同じことだったのではないでしょうか。
「人間は、もっと自由になっていい」
その自由とは、「どこにも属さず、すべてとつながる」ことです。そしてそれは、AI時代を生きる私たちにとって、最も切実で、最も希望ある選択肢なのです。
BBDF 藤本