「働かざる者、食うべからず」は本当か?
「働くのが当たり前」「働かざる者、食うべからず」
これらの言葉は、私たちの内面に深く根を張っているものです。仕事をしていないと、どこか「役立たず」のように見られ、肩身が狭くなる…そんな感覚を持ったことがある人も多いのではないでしょうか。
でも、本当に「働くこと」は人間の本質なのでしょうか?
前回までの連載では、ケインズの未来予測、欲望、分配、企業構造を通じて、「働かなくても生きていける社会の可能性」について考えてきました。
今回はさらに一歩踏み込んで、「そもそも“働くとは何か?”」という問いに立ち返ってみたいと思います。
アーレント:人間には“働かない次元”がある
ドイツ出身のアメリカの政治哲学者ハンナ・アーレントは、その主著『人間の条件(The Human Condition、独題:Vita activa oder vom tätigen Leben)』(1958年)において、人間の営みを3つに分類しました。
- 労働(Labor):生存のために必要な行為。食べる・働く・消費するなどの循環的営み
- 仕事(Work):道具や作品、制度など“人工物”を生み出す行為(職人や芸術家など)
- 活動(Action):他者と関係し、世界に語りかけ、自分の“存在”を示す行為(政治・対話・友情)
アーレントは、この中でもっとも人間的なのは「活動(Action)」だと述べました。つまり、人間の本質は「働くこと」ではなく、「語り、関係し、世界と関わること」なのです。
「労働=生きるためにやむを得ず行うこと」とするアーレントの立場は、“働かないこと”を一概に怠惰とする近代の価値観に一石を投じます。
これはまさに、寅さんの姿に重なります。寅さんは、特定の生産活動や組織的役割において何かを成し遂げるわけではありません。しかし、人と出会い、語り合い、泣いたり笑ったりしながら“世界と関係し続けている”存在です。
アーレント的に見れば、彼は「労働者」ではなく、むしろ「行為者」ということになります。それが、最も人間的な存在なのです。
バタイユ:無駄・浪費・祝祭にこそ人間の本質がある
続いて取り上げたいのが、フランスの思想家ジョルジュ・バタイユです。彼は『呪われた部分(La Part maudite)』(1949年)という著作の中で、次のような過激な主張をしています。
「人間は生き残るためではなく、無駄のために生きている」
これは、生存や効率性を第一とする近代合理主義への強烈な反論です。バタイユは、豊かになればなるほど人は“余剰”をどう使うかが問われるようになると説きます。
- 社会が成熟すると、エネルギーの一部は「生産や蓄積ではなく、無駄に使う(=祝祭・贈与・遊び)」ことに回される
- これこそが人間らしさの表現であり、ただ生き延びるだけではない“文化的・精神的生命”の証明だ
つまり、「非生産的であること」こそが人間性の発露であるという考え方です。
これもまた、寅さんの生き方と深くつながります。彼は利益を最大化しようとしません。移動にお金を使い、酒に使い、人のために散財することすらある。
まさに、「生きるために稼ぐ」のではなく、「出会いと笑いのために生きる」という、バタイユ的浪費者。それが寅さんです。
“生産性”の呪縛から自由になる
現代社会では、あらゆる行動が「生産性」「成果」で測られる傾向にあります。
- この会議は意味があったのか?
- この人材は成果を出しているか?
- この時間、どれだけ価値を生み出せたか?
しかし、寅さんのように「何もしない」「ただ、そこにいる」ことにこそ、人間存在の根源的価値が宿るのだとしたら?
生きることの豊かさとは、「何かを成し遂げること」ではなく、「ただ存在すること」なのかもしれません。
そして、AIや自動化が人間の労働を代替するこれからの時代、“働かないこと”がようやく正当に評価される準備が整いつつあるのです。
【次回(第5回)予告】
雇用を超えて生きる。寅さんとDAO社会の意外な共通点
次回は、寅さんのように「企業に属さずに生きる」ことが、これからの社会でどう実現されるのか?そして、DAO(分散型自律組織)という新しい経済構造が、「働かないこと」ではなく「つながって在ること」に価値を与える可能性について考えていきます。
BBDF 藤本