「もっと、もっと」が止まらない世界
前回、ケインズの未来予測がなぜ外れたのか?その一因として「人間の欲望は収束しなかった」という問題を挙げました。
SNSで他者の暮らしを見ては焦り、広告で新たな欲求を植え付けられ、終わりなき“次の目標”を追い続ける現代人。
しかし、ここで誤解してはならないのは、欲望そのものが問題なのではないということです。
問題なのは、それを無限に拡張させる構造──つまり、“中央からの価値注入”によって人々の行動や感情を操作するツリー型の経済モデルです。
テレビ、SNS、広告、ランキング──あらゆるメディアが、上から下へと欲望のヒエラルキーを作り出し、私たちはその幹を登り続けるしかないように仕向けられています。
「もっと稼がなければ、もっと得なければ、もっと働かなければ」
このスパイラルから脱しない限り、ケインズが語った「自由時間の増加」は手にしようがありません。
寅さん的“足るを知る”感覚
そんな中で、まったく逆の姿を見せてくれるのが寅さんです。
定職も定収もなく、スーツケース一つで日本中を渡り歩く彼は、いわば「近代的成功」から最も遠い場所にいる人間です。
でも、彼の表情からは、どこか充足感のようなものがにじみ出ています。人とのつながりがあり、飯を食って、冗談を言い、ちょっとフラれて、また旅に出る。
そこには、「もっと得たい」「もっと上に行きたい」といった“線形的欲望”ではなく、「いま・ここ」に根ざした満足と余白の感覚があります。
「これくらいで、いいんじゃねえか」
そうした感覚は、まさにケインズが予測した“自由な時間を生きる人間”の先取りと言えるのではないでしょうか。
リゾーム的分配とは?中心なき、水平な経済の可能性
ここで再び、ドゥルーズ&ガタリの「リゾーム思考」に立ち返ってみましょう。
リゾームとは、特定の中心や根を持たず、どこからでも伸び、どこへでもつながる地下茎のような構造です。
この思考を経済に応用すれば、“誰かが上から配る”のではなく、“ネットワークの中で自然と循環する”分配のあり方が見えてきます。
たとえば…
- DAO(分散型自律組織):中央管理者を持たず、スマートコントラクトによって価値が分配される仕組み
- UBI(ユニバーサル・ベーシックインカム):すべての人に一定の生活保障を提供する制度
- AI税(ロボット税):企業がAIやロボットを導入し、人間の雇用を減らした場合、その分の“見えない失業”に対して課税を行い、社会に再分配する仕組み。ビル・ゲイツが提唱し、実際に欧州などで議論が進むこの考え方は、テクノロジーの恩恵を社会全体で共有するための“分配インフラ”になり得ます。
- データ・ディビデンド:AIや企業が活用する“個人のデータ”の利益を、その本人に還元する仕組み。データ資源を「共のもの」と捉え、それを個人や地域に循環させる考え方です。
これらはいずれも、「働いた人が報酬を得る」という直線的な交換の外側にある、“共につながっていること”に価値を置く仕組みです。
つまり、リゾーム的経済とは「共にあることが富を生む」という発想に基づいた、中央なき連帯のデザインなのです。
そして、こうしたネットワークが進化していけば、“企業”という存在そのものを、必ずしも前提としなくてもよい時代が来るのかもしれません。
「雇う/雇われる」という関係性を超えた、“つながり”と“共有”をベースにした価値循環。それは、まさに寅さんのように、どこにも属さず、すべてとつながって生きる未来像です。
制度と意識、両方のリセットが必要
寅さんのような暮らしは理想的に映るかもしれませんが、現代社会において「働かずにどう生きていくか」という問いは現実的な重さを伴います。
だからこそ重要なのは、以下の両輪です。
- 制度的基盤の整備(UBIやDAOの導入など)
- 欲望の構造を見直す文化的転換(“もっと”より“これで充分”という意識への移行)
このふたつが揃ってはじめて、「足るを知る」社会は実現可能になるのです。
【次回(第4回)予告】
「働かない権利」の哲学。アーレントとバタイユから考える
次回はいよいよ、「働かない」という選択そのものの意味に迫ります。
労働は人間の本質なのか?“余白”や“遊び”は、ただの贅沢なのか?
ハンナ・アーレントの『人間の条件』、ジョルジュ・バタイユの「無駄の哲学」を手がかりに、寅さんの背中に宿る“非労働的な豊かさ”を掘り下げていきます。
BBDF 藤本